「クラシック音楽館」(NHK)といえば、普段はN響の提灯番組ですが、昨夜は珍しくもニューヨーク・フィルハーモニックの演奏が放映されました。昨夏にドイツのウーゼドム(Usedom)とやらで行われた演奏会をフルに収めたもので、亭主にとっては久々に耳にする米国の著名オケです。番組の途中から聴き始めたのですが、演奏・音響いずれもなかなかのもので、気づいてみると(これも珍しいことに)2時間弱の長尺の放送をお終いまで聴いていました。
この演奏会が行われた「ウーゼドム音楽祭」、亭主には初耳でしたが、調べてみるとウーゼドムはバルト海に面したポーランドとの国境(旧東ドイツ)にある島の名前で、そこのペーネミュンデという街で1994年から毎年開催されているとのこと。既に30年近い歴史を刻んでいます。しかも会場は普通のコンサートホールにあらず。巨大な工場のような作りの建物は、もともと発電所のタービンホールだったのを2002年に改装したものだとか。薄暮の中で剥き出しの鉄骨や配管が所々青くライトアップされた会場の光景は、何だか近未来を舞台にしたSF映画の中にいるようです。
ちなみに、ここでかつて稼働していたのは石炭火力発電所で、第二次世界大戦中に当地に置かれていたナチスのロケット兵器研究所(ロンドンを恐怖に陥れたあのV2ロケットの開発拠点)に電力を供給していたという曰く付きのもの。現在は兵器開発の実験場跡と共にペーネミュンデ歴史技術博物館として公開されているそうです。ウーゼドム自体は、夏の音楽祭が開かれるだけあって海浜のリゾート地としてドイツ国内でも有数の人気スポットだとか。兵器開発とリゾート、何とも皮肉な組み合わせですが、現代における音楽、とりわけ西洋クラシック音楽の意味を考える上では象徴的な場所かも?
さて、演奏会の指揮棒をとったのは、オランダ出身で現在ニューヨーク・フィルの常任であるヤープ・ヴァン・ズヴェーデン(亭主は全く存じ上げず…)、演奏されたのは順に米国の現代作曲家ジョーン・タワー(Joan Tower)による「1920’2019」というタイトルの作品、アンドレ・プレヴィン作曲のヴァイオリン協奏曲「アンネ・ゾフィー」、そして最後はバルトークの「管弦楽のための協奏曲(オケコン)」。ヴァイオリン協奏曲のソリストは、他でもないアンネ・ゾフィー・ムターでした。
普段は現代音楽を避けている亭主、「1920’2019」を途中から聴き始めたところ、なかなかイケている感じでそのまま番組にロックオン状態に。この作品の由来、ウィキペディアによると以下のようです。
1920’2019は、アメリカの作曲家ジョーン・タワーによって書かれたオーケストラ作品である。この作品は、米国憲法修正第19条の批准100周年を記念して、19人の女性作曲家による新しい作品を委託するイニシアチブである「プロジェクト19」の一環として、ニューヨーク・フィルハーモニックによって委託された。その世界初演は、COVID-19のパンデミックによって遅れたが、2021年12月3日にアリス・タリー・ホールでヤープ・ヴァン・ズヴェーデンの指揮の下、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。この作品は、「プロジェクト19の創設に対する彼女のビジョンに敬意を表して」ニューヨーク・フィルハーモニックの社長兼CEOのデボラ・ボルダに捧げられている。
亭主が聴いた印象としては、どちらかと言うとポリフォニックで叙情的な雰囲気で、好感が持てる作品。
続いてムターが黒のドレス姿で登場、ヴァイオリン協奏曲が始まりました。プレヴィンはムターと2002年に結婚しましたが(2006年に離婚)、この作品は婚約時代にムター本人に献呈されたものだそうです。プレヴィンがベルリンのユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれ、1938年にナチスの迫害を逃れて米国に渡った音楽家であることを知ると、この選曲についてもいろいろと深読みしたくなるというもの。作品はゆうに40分を超える長大なものですが、不協和音や変則的なリズムの使用は控えめで、華麗なヴァイオリンの超絶技巧を散りばめた劇伴音楽のような音楽に聞こえました。
そして最後の「オケコン」、これは米国に移住後、困窮していたバルトークを助けるために、ボストン交響楽団の音楽監督だったクーセヴィツキーが委嘱した作品であり、それまでの難解さとは打って変わってわかりやすい作風からは、まさに米国の聴衆を意識した音楽と言えるでしょう。
こうして眺めると、3曲はいずれも米国にゆかりの近現代作品というだけでなく、会場を埋めたドイツ・あるいはヨーロッパの聴衆に対して何らかのメッセージが込められていると感じられます。(これは、例えばフランスのオケがお国自慢よろしくドビュッシーやラベルのプログラムを提げていくのとはちょっと次元が違うという気がします。)
ここで亭主の妄想癖を発揮すれば、いまだに芸術至上主義や権威主義に守られている(かのように見える)ヨーロッパのクラシック音楽に比べ、米国のそれは社会の中での自身の存在理由に対して遥かに敏感であると感じられます。演奏会ひとつとっても、意図するとしないとに関わらずそれは政治的な文脈を避けられず、時にはプロパガンダに与することもあるでしょう。米国のオケがヨーロッパに行くとなればなおさらです。
例えば演奏中に次々に奏者を移り変わる映像を眺めていると、楽団員が実に多様なエスニシティを背景にしていることが見て取れます。(昨年にはついに女性団員の数が男性のそれを上回ったとか。)最近まで女性の楽団員を認めるかどうかでモメていたようなどこかのヨーロッパのオケとは別世界です。ちなみに、来シーズン後に退任するズヴェーデンの後任はグスターボ・ドゥダメル、初のラテンアメリカ系音楽監督となるそうです。
聞くところによれば、コロナ禍という「巨大隕石の衝突」で存亡の危機に晒されたという点では米国オケ最古参のニューヨーク・フィルも例外ではなく、ネット上で漏れ聞こえる話からは、彼の地で現代オーケストラという「恐竜」を生きながらえさせるために七転八倒していたことが伺えます。とりあえず「復活」したように見えるものの、もうこれまでと同じ生き方はできないでしょう。
翻って、本邦の状況はというと、そのヨーロッパにすら大きく遅れを取っているようにも見えます。例えば、芸術至上主義や権威主義はいまだに健在。バルトークのオケコンで思い出すのは、ある時FMで流れていたN響演奏会の生中継で、ゲストの野平一郎氏が当日の演目の一つだった「中国の不思議な役人」を傑作として絶賛した後で、これに比べれば「オケコンなんかクソ喰らえだ!」と罵倒していたことです。(亭主のようにオケコンを愛する聴衆から見れば、何とも無礼で高慢な発言ですが、こういう生放送、思わずホンネが出る上に編集が効かないので誤魔化せないのがいいところ。)野平センセイからみると、きっとオケコンは「聴衆に媚を売って堕落した作品」ということなんでしょうね…
こんな風に残念な日本のクラシック音楽界、わけてもオーケストラが滅びの道を辿らないよう、遠くから祈るばかりです。