未音亭日乗

未音亭日乗

古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。

新年最初のお題は表題の書。國分先生にによる「シリーズ哲学講話」の第2段(新潮新書、2025年1月刊)で、昨年7月にこのブログで紹介した「目的への抵抗」という本の続編にあたります。

 

腰巻きの表紙側にある「『楽しむ』とはどういうことか。カントの哲学をヒントにして、現代の”病理”に迫るー。」という惹句は本書の要旨を言い得て妙なるものがあり、前著を知らずとも著者が伝えたいメッセージを受け取ることができる内容になっています。

 

手段からの解放―シリーズ哲学講話―(新潮新書)

 

とはいえ、前著との関係は切ってもきれないものがあることも確か。なぜなら、現代人が往々にして陥る「目的による手段の正当化」という道徳的腐敗から解放されるためにはどうしたらよいか、という前著の問いへの答えが本書の主題でもあるからです。(前著を読んでこの問いの切実さを実感すれば、それに対する答えも身に染みるというもの。)

 

ここでちょっとだけ復習すると、目的による手段の正当化とは「人間が一度何か目的を設定すると、その達成のためには何をしてもよい、というマインドセットに陥ること」を指します。人間に理性の力を期待する亭主のような凡人の感覚からすれば、こういう場合に何らかの道徳・倫理感が働いて「そうは言ってもやってはいけないことがある」と歯止めがかかることを期待したいところです。が、目標達成への圧力が強まるとそのような歯止めが効かなくなり、やって良いことと悪いことの区別がつかなくなる(=道徳的腐敗)というのも凡人の現実。

 

卑近なところでは組織における不正会計処理といった法令違反(いわゆるコンプライアンス不全)から、その極限には戦争に勝つという目的のために組織的な殺人が正当化されるというレベルまで、社会・経済活動のあらゆる面においてこのような道徳的腐敗が見られます。

 

とはいえ、このような文脈で「目的による手段の正当化」の弊を語るのはあまりにコトが深刻で、無力感に襲われるか目を背けたくなるのも人情。それを察してか、本書ではこの問題を「嗜好品」とそれへの「依存症」という別の文脈に置き換えて語ります。

 

ここで嗜好品とは、それがなくても人間の生存に困らないもので、それ自体を「楽しむ」(=享受する)ためにあるものごとを指し、例えばタバコやお酒といった類のものが該当します。この「楽しむ」という言葉、普段我々が何気なく口にし、さしたる深い意味もなさそうな言葉こそが「手段からの解放」にとっての鍵であり、本書はこれを哲学的に考察することから始まります。

 

問題となるのは、これら嗜好品が単に楽しむためだけでなく、精神的不安を紛らわすためといった何らかの「目的」のために摂取されるようになる可能性があることです。お酒はわかりやすい例で、本来なら単にお酒の味を楽しむところを「酔うことで憂さ晴らしをする」といった目的が入り込むことで色々な弊害が現れます。アルハラもそのひとつですが、もっと深刻なのがアルコール依存症です。

 

この状況を念頭に、本書腰巻きの裏表紙側では、「享受の快を剥奪することは、人間に病としての依存症への道を開く。…すべてを手段化した時、我々はおそらく、これまで見たこともないような依存症に出会うことだろう。人間から享受の快を剥奪してはならない。それは人間の生すべてを目的-手段関連に従属させることだからである。」

 

これを言い換えると「目的というやつが人生をつまらなくする」(磯田道史)のみならず、それが手段化することで依存症を発症し、さらには犯罪に手を染めるといった文字通りの道徳的腐敗へと至る扉が開かれてしまうというわけです。

 

従って、このような隘路に陥ることを避ける上でおそらく唯一の処方箋は「何かが楽しめなくなったらそれを止める」ことです。

 

ちなみに、この問題は現代の資本主義社会における際限のない「消費」という深い(深刻な)現実にも直結しています。曰く、「『浪費』は満足すれば止まるが、『消費』は止めどなく続く、なぜなら消費は『物語』によってそれ自体が目的化されるからである。」例えば、高級レストランでのちょっと贅沢な(浪費的な?)食事は単なる「楽しみ」である一方、「グルメガイド」に従って「食べ歩き」をはじめると、食事をした有名レストランの数を競い、あるいはその様子をSNSに挙げて自慢することなどが「目的」となり、レストラン巡りが止めどなく続くことになります。(しまいには「欲しいものが欲しい!」という倒錯に陥ることになり、楽しいどころではなくなってしまいます。)

 

こう考えてくると、「これを知る者はこれを好む者に如(し)かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」 (『論語』)という孔子の言葉にも新たな深い意味を読み取ることができる気がします。

 

ところで、亭主にとって興味深いことに、「楽しい」とは人間の感情のひとつであり、この問題は「感情の哲学」という普遍的なテーマに繋がっています。國分先生によると、彼の論考の出発点となった「嗜好品」についての考察を行った数少ない哲学者の一人がカント(1724-1804)であり、彼の有名な「3批判」と呼ばれる著作のひとつである「判断力批判」の中で取り上げられています。そこでは人間の「感情能力」と、その高次の対象である「美しいもの・崇高なもの」、および低次な対象である「快適なもの」という概念の関係を論じているとのこと。

 

「快適」とは感情というよりは身体の受動的状態を反映する「情動」に近いもの、という近年の脳科学的知見に照らせば、ヒトの感情を「能力」と見たり、その対象が高次だの低次だのと分ける議論には違和感もあります。とはいえ、18世紀の人間が純粋に思弁だけに基づいて「楽しい」とはどういうことかをそれなりに論じて見せたという点は、それ自体でなかなか興味深いことに思われます。

 

なお、判断力批判の中の議論については、「3批判」の他の著作(純粋理性批判、実践理性批判)との関係も含めて國分先生自身による解説記事をウェブ上で見ることもできます(こちら)。