そうして三ヶ月後、奥多摩の山中から希美の遺体が見つかった。前日の激しい雨で遺体の一部が露出していたのを登山者が発見して通報したらしい。梗子は智樹はどうするのだろう、どうなるのだろうと思っていたら、逮捕されたのは智樹の両親だった。希美の遺体を運んで山中に埋めたのは智樹ではなく彼の父親だったのだ。智樹は本当に希美は失踪したと思っていたらしい。
梗子の予想とは多少の違いはあるが返って好都合だと思った。智樹が何も関与していないという事は彼に警察の捜査が及ぶ事もない。梗子は彼の力になってあげなくてはと思う。智樹が今、どんな思いでいるのだろうかと思うと彼を励ましてあげなくてはと思う。打ちひしがれているであろう彼の力になってあげられるのは自分しかいないと思う。こんなことになった原因が自分にあるとは全く思わない。
梗子は二人の裁判は全て傍聴に行った。智樹の様子が気掛かりという事もあったが澄子が要らぬ事を口走るのではないかとやはり正直なところ気になった。裁判になって初めて見た澄子の様子は明らかに認知症の症状が進んでいると思った。行く前は出来るだけ澄子と顔を合わさないような位置に座らなくてはと思っていた。梗子の顔を見て何か思い出されたら不味い、しかしその心配はないように思われた。あの様子なら何か口走っても彼女が何処迄本当の事を口走っているのかは分からないだろうと安堵した。
裁判は梗子の思惑通りに進み、澄子は刑が確定し医療刑務所に収監される事になった。ただの刑務所ではなく医療刑務所というのは勿怪(もっけ)の幸いだと思った。この先も澄子があらぬ事を口走ったり、ひょんな事で何かを思い出しても阻止する事が可能だと考えた。判決が出てすぐに梗子はそちらの看護師に応募した。看護師は不足していたからすぐに採用された。かと言ってすぐに澄子の担当看護師にはなれなかったが友人の母親だからなんとか担当になれるようにと人事に掛け合ったのと、丁度精神科の看護師に欠員が出たのもあって澄子の担当になる事が出来た。何もかもが梗子の思い通りに運んでいる。世界が梗子に味方してくれていると思った。智樹は梗子が志願して母親の世話をしてくれている事に大いに感謝し、漸く梗子の思いが届く日が来た。
(こんなに上手くいくなんて)
ただ、気になったのは時折、智樹が連れてくる由布子の存在だ。若くて溌溂としていてそこそこの美人だ。まさかその由布子があのアパートにいたあの時の隣人だとは全く気付かなかった。アパートにいた住人の名前など憶えてもいなかったから。ただ智樹や澄子に話す会話の内容でもしかしてと思うようになった。あの時の子は大柄で野暮ったくて男みたいな子だという印象しかなかった。変われば変わるものだと驚いた。こんなに奇麗に変わったのはもしかして智樹を好きなのではという疑いが湧き出た。彼の気を引く為に痩せて奇麗になったのではと思い出すとそうとしか思えなくなった。やっと智樹が梗子という存在を受け入れてくれるようになったというのにいきなり横から現れて掻っ攫われたのでは堪ったものじゃない。そんな事を思っていたら今日、澄子が由布子の事を智樹のお嫁さんだとか言い出した。冗談じゃない、そんな言葉は聞くだけでも不愉快だと思った。これは今のうちに何としかなくてはいけない、出る杭は打たなくてはいけないと梗子は思った。
今日、由布子のところを訪れてすっきりした。自分の不幸な生い立ち迄話して智樹への思いを伝えたのだ、由布子だって十分分かっただろう、由布子の出る幕など微塵もない事を。
「澄子さんの事、宜しくお願いします」
帰り際、由布子はそう言って深々と頭を下げた。梗子は頷いた。
(勿論、しっかり面倒見るわよ)
そう心の中で返した。余計な事を言わないように最期のその時までしっかりお世話して差し上げますよ、と。
梗子が帰って閉められたドアを見ながら由布子は深く息を吐いた。何だか怖かった。それに梗子は希美とは友人だと聞いていたがその死を少しも悲しんではいないように思えた。それともあれからもう二年近く経つのだからその悲しみからは立ち直ったのだろうか。でも彼女からしたら複雑なものもあるのかも知れない。梗子は智樹とも高校時代からの友人なのだ。その母親が友人を殺害したなどと受け入れ難い現実であろう。でも梗子はその夫の智樹との結婚を考えているようだ。ずっと好きだったみたいな事を言っていた。その想いは智樹が結婚した後もずっと続いていたと言う事か。何だか複雑過ぎて考えようとすると由布子は頭の中が混乱してしまいそうになった。
(わけ分かんね…)
智樹はとても優しくて良い人だと思う。浩太や舞奈も素直で可愛い子達だ。子供達とはそんなに何度も会ったわけではないが事件の後、二、三度会った。母親が死んで悲しくて寂しいだろうに父親に気を使っているのかそういう事は何も言わなかった。それが余計不憫に思えた。みんなが幸せになれれば良いと思う。そう思った時に脳裏にさっきの梗子の顔が浮かんだ。本当に彼女で大丈夫なのだろうか。わざわざ職場を澄子のいるところにまで変えて世話をしてるのだからきっと良い人に違いない。澄子が人を殺したと知っても変わらず接してくれていると智樹は言っていた。優しい人なのだ。由布子はそう自分に言い聞かせる。それでもあの梗子の笑みはゾッとするほど冷たく不気味に感じた。何故そう感じたのか分からない、ただ、早く帰って欲しい、心底そう思った。そんな風な感覚は初めての事だった。
そうして智樹から澄子が亡くなったという知らせを受けたのは面会に行ってから僅か一ヶ月しか経っていなかった。倫之は間に合わなかった。知らせを受けた倫之は肩を落として涙を堪えていたそうだ。電話口で智樹は今にも泣きそうな声でそう語った。事情が事情なので葬儀は密葬で行うとの事であったが由布子は参列した。澄子に最後のお別れがしたかった。
葬儀場には梗子もいた。梗子は由布子を見ると薄ら笑いを浮かべた。背筋にゾワッとしたものが走る。その表情は悲しんでいるというよりどこか満ち足りた表情に見える。由布子が棺の中の澄子の顔が見たいというと智樹は少し難色を示した。
「母は、穏やかな死に顔ではないのです…」
智樹は唇を噛むようにそう言った。
「やはり、人を殺したという罪を背負ったからなのでしょうか…私は母に穏やかな人生を送らせてあげられなかった。安らかな最期を迎えさせてやれなかった。一生悔やみ続けます…」
由布子には澄子の優しい笑顔だけを覚えていて欲しいと言われたが由布子はどうしても澄子の顔が見たいと言って見せて貰った。澄子がどんな風に最期を迎えたのか知りたいと思った。例えそれが惨い状態であっても由布子の中の澄子の笑顔が消える事はない。だが見た瞬間、それは別人かと思った。その顔は由布子が知っている澄子の顔ではなかった。苦渋に満ちた顔に由布子は悲しみが益々吹き出した。
「澄子さん…」
あんなに優しかった澄子の変わり果てた姿に胸が締め付けられる。由布子はそっと澄子の冷たくなった頬に触れる。不思議な事が起こった、その瞬間、澄子の頬がほんのり赤くなったように見えた。そしてその表情に笑みが浮かんだように顔が優しくなった。
「母さん…」
智樹が思わず声を漏らした。
「あなたに会いたかったのですね…」
智樹はそう言って涙を流した。由布子の頬にもあとからあとから涙が零れ出た。