清香はまた来るだろうかと武之は思った。彼女が心に何かを抱えている事は何となく感じる。それを吐き出させる事が武之には出来るのだろうかと思う。人の心は複雑だ。精神科医という職業ではあるがそれを覗き見る事は容易な事ではない。そして無理やりこじ開ける事はその精神を壊しかねない。
だがその日は案外と早く来た。清香が二度目に武之の診療室を訪れたのはそれから一週間後であった。
「先生、こんにちは」
武之の顔を見て清香はにっこりと笑った。
「何か、問題でも起こりましたか」
「いえ、でも先生の顔を見ると私、なんだか落ち着くんです」
「そうですか」
「こんな理由で来ては駄目でしたか?」
「いいえ、大歓迎ですよ。というのは変ですが、私と話して気分が落ち着くと言うのは医者としても嬉しい言葉です」
「良かった」
そう言うと、清香は本当に嬉しそうに微笑んだ。この美貌でこんな風に笑顔を向けられると大抵の男は誤解してしまうだろうと思ってしまう。
「私、先生の前だととても自然でいられるみたいです」
「いつも無理をしているのですか」
「無理、というわけでもないのですけど。こうでなければいけないという思いはあります」
「それは、どういう時ですか?」
武之の質問に清香は少し考える様に顎に手をやる。その所作の一つ一つがとてもしなやかで優美である。彼女は自分が美しく見える術を知っていてそうしているのか、それともそれは自然に身についたものなのかは定かではないが男を引き付ける要素を多分に持っている事は疑う余地もない。
「大学の時に父が亡くなったんです」
「はい」
「両親はとても仲の良い夫婦で、母は父がいなくなってとても悲しんで、妹も泣いてばかりで。だから私がしっかりして二人を支えて行かなければいけないと思いました」
「泣かなかったのですか?」
「泣けなかったのです」
「泣けなかった?あなたが泣くとお母さんや妹さんをもっと悲しませると思ったからですか?」
その問いに清香は少し首を捻る。
「そう言うのとは少し違います。本当に泣けなかったのです」
そう言った後、清香は少し間をあけた。
「先生、私がここで話した事って誰にも話しません?」
「勿論です。医者には守秘義務がありますからね。患者さんとの会話は例え家族にも漏らすような事は致しません」
「先生、ご家族いらっしゃるのですか?」
「妻と娘が一人います」
「素敵!娘さんって可愛いですか?」
「それはもう」
武之は娘の事を聞かれると自然と口元が綻ぶ。我ながらしまりがないと思う事が度々あるくらいだ。
「父も、私達の父も私達姉妹をとても可愛がってくれていました。私も父が大好きでした。でも、泣けなかったんです。妹や母があんなに泣くのをなんだか不思議な気分で見ていました。先生、私ってやっぱりおかしいですよね」
「泣かないというだけで変だとは言えませんよ。不思議な気分とはどんな気分だったのですか?」
「死と言うものがピンときませんでした」
「ほう」
「だって、滅んだのは肉体だけでしょう。魂は死なないでしょう?」
「魂?ですか。確かにそう考える方はいるようですね。でも全ての人がそう言う風に考えられるわけではありません。第一、魂とは語り合えないでしょう。人はその事に悲しみや寂しさを思い、泣くのですよ」
「どうしてですか?」
「どうしてとは?」
「どうして魂とは語り合えないのですか?」
「目に見えないからですよ。多くの人は目に見えるものに喜びや悲しみを持つのです。生きている生身の温かさに触れる事に心が癒されるのですよ」
武之の言葉を噛みしめるかのように清香はその言葉を小さく復唱する。
「では死んだら終わりなのですか?」
「そうとは言いません。亡くなってもその方との思い出は沢山あるでしょう。心で思う事は自由です。終わりにするかどうかは残された方の捉え方次第です」
「私は父が死んだ時、ホッとしました。やっぱり変ですよね」
「どうしてホッとしたのですか?」
「父は病魔に侵されてどんどんやせ細って変わっていきました、肌の色も。私はそれを見ていてああ、父の肉体はどんどん滅んでいっているのだと思いました。亡くなる何日か前は身体を動かす事さえ辛そうでした。だから亡くなった時にはあの朽ち果てた肉体からやっと解放されて楽になったのだと思いました、良かったって」
「それはあなたの優しさですよ。あなたは変わっていくお父様を見ているのが辛かった、その苦しみから解放してあげたいと願ったのでしょう」
「でも母や妹はどんなになっても生きてて欲しかったって言っていました」
「考え方は人それぞれです。どれが正しくてどれが間違いとは言えません。お父様に対する愛情はどちらも正解なのですよ」
「愛情、ですか。妹は天真爛漫で自分の感情をいつも素直に表します。私はそれを時々羨ましく思います。本当に可愛いと思っているのにあの子の笑顔を壊したくなる時があります。これは本当は愛情がないという事でしょうか」