戦後70年の談話について、安倍総理は50年の村山談話、60年の小泉談話にあった、「侵略と植民地支配」や「反省とおわび」の文言を踏襲したくないと言っているそうである。さっそく中国が歴史の歪曲と非難のコメントを発表した。


第二次世界大戦終結から70年間、世界は概ね大戦後の秩序(国境線)に基づいて動いてきた。大戦後の秩序というのは、だいたい第二次大戦の事実上の戦勝国、アメリカ、ヨーロッパ勝ち組のイギリス、フランス、戦争最後に入って来たロシア(旧ソ連)の思惑にしたがったものである。


戦争は当事者間の意思や利害の調整がうまくいかなくて起こるものであり、その意味でどちらにも言い分はあるからどちらが正しいかは立場によるが、結果として勝ったものの意思や利害が尊重されることになる。『勝てば官軍、負ければ反乱軍』ということ。反乱軍とされた側に納得のいかないものが残るのは当然な面もあるが、意思を持って開戦に関与し、その国の国民、戦争相手の国、巻き込まれた国々に多大な被害が発生しているのだから、反省は当然だし、賠償もやむを得ない。


今、当事者でなかった国が不満を表明して、戦後秩序の変更を迫る動きがある。当事者でなかった国とは、戦勝国の連合軍側に名前は連ねたとはいえ当時発言力がなかった国や、敗戦国の植民地、事実上の支配地だった地域である。


ISIL(いわゆるイスラム国)は第一次大戦にさかのぼって国境線に異議を唱えている。彼らの残忍卑怯な手段は許容できるものではないが、自分たちの住む地域のあり方を他国が勝手に決めたことに対する心理的な反発を共有する人たちはいても不思議はない。中国は、現在の共産党国家は第二次大戦終結時になかったわけだから戦中のことを責める筋合いはないともいえるが、東シナ海、南シナ海領域や地続きの国境線でも口実をつけて侵犯を繰り返している。韓国はいろいろと騒ぎたてるので気に障ることはあるが、竹島と慰安婦問題というのは、戦後秩序への異議という面ではたいした問題ではない。


戦後秩序が大きく変わり、それが国際的に認められたことといえば、旧ユーゴスラビアの分裂と、東欧、バルト地域の旧ソ連領の解放だが、これに対してロシアは解放後も緩やかな維持を望み、かなわないところでは侵略の意図を持っている。


二度の大戦における戦勝国のアメリカ、イギリス、フランスは、特に後者ニ国は、彼らの処理が中東地域の不安定を招く一因となっていることには口をつぐみ、現秩序で得た権益を守る方針を貫いているようにみえる。


このような状況を鑑みる時、日本は、敗戦国ながら戦後秩序の中でもっとも恩恵を受けてきたと言える。本来の領地以外を放棄し、賠償金を払いながら、戦争放棄の憲法もと、国力を経済に注いで繁栄を達成することができた。


だから、日本の立場としては、いろいろと不満や火種はあるにしても、それはできるだけ棚上げにして、今の世界秩序を守る努力をするべきではないか。


降りかかる火の粉には冷静に対処して、燃え広がらないようにするのが一番よいと思う。


一国平和主義が叶わない現実ではあるが、「侵略と植民地支配」を反省し、発生した被害を「お詫び」し、その反省と謝罪のうえに、平和憲法にのっとった平和に貢献するという基本スタンスを堅持して、具体的な問題にあたってゆけばよい。


なぜあえて、中国や韓国を刺激するようなことをしなければいけないのか?声はあげないが植民地支配や戦争中に被害を受けた台湾、東南アジア諸国だって、日本の言動に複雑な思いを持たないとは限らない。


あえて日本サイドから、今まで積み重ねてきた歴史をかえて、周囲の国の反発を強めさせることのメリットが全然わからない。強そうに見せるパフォーマンスなど、迷惑なだけである。かかってきた火の粉には、具体的な史実を検証できる範囲で冷静に示し、延焼を食い止めてゆくことが、国際的な支持を得られる唯一の方法である。

●ISIL日本人拘束事件に対する政府の対応


今回の日本人拘束事件における政府の対応については、相手方が無茶苦茶なのと、日本政府側が有効なカードを持たなかったことから、最悪の結果となってしまったけれど、全体としては難しい状況の中で政府はできるだけの努力はしたように思う。特に、皆がこの事件を知ることになったISILの恫喝動画の公表以降は、誰が対応してもこのような結末は避けられなかったのではないかと思わずにはいられない。


とはいえ、今後も日本人が同じような犯罪に巻き込まれる恐れはある。すでに起こってしまったことへの批判ではなく、今後似たようなことが起こる場合に備えるためという建設的な観点から、政府の対応について気になったことを考えてみたいと思う。


重大事件について検証するのは必要なことなのだが、わざわざ前段落のようなことを書く気になったのは、国会討論でのこの件に関する野党からの質問について(安倍総理の中東訪問でのスピーチにかかわること)、頭ごなしに安倍政権批判するな、イスラム国よりだという記事や多数のコメントを見て、うんざりしたからである。


国民の命にかかわるような重要な問題については、異なる意見も考慮したうえで、こういう理由で自分はこう判断する、というように、自分で考えて判断してほしい。強気な意見をいう頼もしげなリーダーはなんとなく好感が持てるから、そうだそうだと自分も強くなったようないい気分でいるうちに、気が付いたら思いがけない結果が自分にふりかかるということもある。要は、自分でも考えてみよう、ということです。


政府の対応について考えたこと


1) ISILが最初の脅迫動画で、安倍総理がISILと闘う国々に2億ドルの人道支援を行うと表明したことを取り上げて、日本は敵だ、支援と同じ2億ドルを払えと要求したことについて


国会でも共産党の小池議員が、1月17日に安倍総理がカイロで行ったスピーチで、イスラム国対策として2億ドルの人道支援をすると言ったことが、拘束された日本人に危険を与える可能性があったのではないかという内容の質問をしました。安倍総理の答えは、「テロリストに過度の気配りをする必要はまったくない」というものでした。民主党の細野議員からは、安倍総理の中東訪問がテロリストに口実を与えてしまったのではないかという質問がありました。


この点については、議員の質問を待つまでもなく、気になっていました。というのも、安倍総理の中東歴訪は知っていたけれど、行った先でどんな話をしているかは知らなかったので、その話しの内容を初めてきいたのが、あの脅迫動画だったのです。加えられた説明として、安倍総理が訪問先のエジプトで、ISILと闘う周辺国に総額で2億ドルの支援を約束すると表明したことを受けて、ISILが人質1人1億ドル、あわせて支援と同じ2億ドルを払えと要求したという報道でした。しかも日本人がISILに拘束されているのは、政府は前から知っていたと。


そのニュースをみて反射的に感じたのは、日本人が拘束されてるのに、拘束してる相手と闘っている国に支援するって言ったのか、ケンカ売り返してるみたいだな、というものでした。人質の身の安全に関わってこないと考えたのか、あるいは、考えた上でスピーチ内容を優先したのかと。

 

その後の経緯を考えると、ISIL側は、安倍総理の中東訪問というタイミングを待っていただけで、安倍総理のスピーチの内容がどうだったにせよ、そのタイミングにぶつけて動画を公表するつもりだったのかもしれません。また、安倍総理のスピーチ内容の全文を見てみましたが、支援策も含め、友好的なたいへんよいものです。


ただ、実際に人質をとられているこの時点において、スピーチに「ISILと闘う周辺国」という、ISILに上げ足をとられかねない言葉を入れる必要があったのかという疑問は残ります。安倍総理は国会答弁で、「テロリストに過度の気配りをする必要はまったくない」とおっしゃり、それはその通りですが、複雑な事情で紛争の絶えない中東に「積極的平和主義」を掲げて積極的に関わっていくなら、「日本国民の安全には十分な気配りを」してほしいです。


スピーチの文言からISILの名差しをのぞいて、地域の安定を助け避難民やインフラなどに支援するという言い回しでもよかったのではないかと考えます。それでISILの態度がかわったかというとわかりませんが、リスクを低められる可能性があることならしてみてもよいのではないかと。


一方、このタイミングであえてこの文言を入れるメリットは何だったのかというと、私にはくわかりません。対ISIL有志同盟への非戦闘支援はどちらにしても行うわけですし、日本が戦闘には加わらなくともそちら側の陣営に属していることは米英は知っているでしょう。


中東のテロリストはISILだけではないし、テロ以外にも複雑な事情がうずまく中東地域に積極的に関わっていく限り(それ自体は賛成です)、充分に情報を集め、分析し、リスクを最小に抑える細心の注意を払う必要があると思います。


実は、事件とその後の国会審議などを含めた推移の中で一番驚いたのは、岸田外務大臣の「改めて中東地域の専門家の育成の重要性を痛感した」という発言です。


え、今さら?というか、中東の安定に積極的にかかわっていくと今までの方針から転換するなら、それなりにその地域の政治の難しさに対処しうる情報・判断力のベースを備えておいてほしかった。存在感を高めるには、それに相応する危機管理能力が必要な地域だと思います。


日本の中東政策はまた別途考えたいですが、基本的には安倍総理が打ち出した、積極的平和主義には賛成です。


2)脅迫動画公表後に何かできたか


動画公表時に直感的に感じ、その後の経緯と共にますますその感じは強まったのですが、動画が公開された時点で、人質無事解放の可能性は非常に少なかったもではないかということです。公表するということはISILが自分たちの優位を誇示したいわけですから、要求を下げていくことは考えにくいのに、2億ドルという途方もない身代金をわずかな期限を切って提示しました。次の要求は、日本に対して、ヨルダンに捕えられている囚人の解放です。身代金は受け入れがたい金額だし、囚人の解放は日本政府に当事者能力はありませんでした。囚人の解放についてすでにヨルダン人パイロットとの交換でヨルダンとの交渉をしていたことを考えれば(しかもパイロットはすでに殺されていたもよう)、ISIL側は、ほぼ無理とわかったうえで、あわよくばヨルダン国内に混乱が起こって弱体化したところに勢力を伸ばすくらいの考えだったのかと思われます。


もともと人質事件というのは卑怯きわまりない犯罪ですが、犯人が自爆覚悟のテロリストの場合、相手に何も失うものがないわけで、ほんとに手の打ちようがない。犯人のやり方は狡猾で、人質の命を失ったのにくわえ、日本の中東での新しい顔にも水をかけられる結果になりました。一矢報いたといえるとすれば、悲しみと恐怖を与えられても、日本ではいたずらに政府や政策を非難する声が高まらず、むしろ反テロの姿勢が固まったということでしょう。


もしISIL側に、中東政策についての日本国内の動揺を誘う、という意図があったとしたら、それには逆効果でした。好戦的にみえる安倍総理を警戒している人も、多くは、ISIL側の残虐さをみれば国内がわれている場合ではないと考えるでしょう。


動画公開後に他の道があったとすれば、対策本部をヨルダンではなくトルコに置いたらどうだったかというくらいです。トルコも親日的な国ですし、人質解放の実績もあるので可能性としては考えられるという程度です。むしろ、囚人解放というカードがない分、悪い結末が早まる結果になっただけかもしれませんが。ただ、シリア大使館がシリアからヨルダンに避難してきていたから、というだけの理由で対策本部をヨルダンに置いたのであれば、期限を切られて日もなかったので仕方ない面はありますが、検討の余地はあったかもしれません。


3)動画公開前にできることはあったか


となると、何か出来たとすれば、動画の公開前だったことになりますが、実際、対策室を開き、後藤健二さんのISIL入りを引きとめる努力はなされていたと発表されています。後藤さんのご家族あてに来ていた身代金要求の交渉に政府がどうかかわっていたかとか、何か交渉ルートはなかったのかとか、知りたい気はしますが、すべて出せる話しでもないのでしょう。


表に出てきた話としては、宗教家とジャーナリストの2人、ISILと話せる、交渉ルートがある、交渉してもよいとご本人たちは言っていたのに、ISIL渡航希望の北大生の話に絡んで公安から調べられたりでできなくなったという話があります。


ISILと話せるってどういう人たちなのと怪しく感じてしまう面はありますが、宗教に疎い者には想像もつかないくらい宗教のネットワークは国を超えてつながっているようなので(これはたまたま熱心なカトリック教徒の知人が、どこの国に行っても教会を通じて厚遇してもらえると言うのを聞いた経験によるもの)、波乱のきっかけに利用されるおそれのある総理の中東訪問を控えて、他に手がなければ、検討の余地はなかったのかと思います。


4)政府の基本方針


日本人拘束事件について、政府の基本方針は、「テロには屈しない、人命を第一に考える」でした。どちらも正しいですが、両立は難しい。テロに屈しない=テロリストと交渉しないのであれば人命が犠牲になる危険が大きい。人質の命を第一に考えるのであれば、ダッカ事件のときのように、一人の命は地球より重いということで、多額の身代金を払い、囚人のテロリストを解放することになります。


今回の事件をあてはめれば、2億ドルの身代金を払って人質を解放してもらうことになる。しかし、その2億ドルがテロリストの資金となり、さらなる弾圧やテロにつながれば、人質2人以上の人命が失われることになります。人命を数でかぞえれば、「テロには屈しない」「(失われる)人命(の数)を第一に考える」は矛盾しません。しかし、人質が犠牲になる危険は高まります。


テロリストに屈しない=身代金は払わず、人質交換(テロリストの解放、日本にこのカードはありませんが)にも応じない姿勢を貫くとすれば、人質を救出するためには、軍事的な救出作戦しかありません。しかしアメリカやイギリスはそうしていますが、なかなか難しく、交渉成立まぎわだった他の国の人質まで巻き添えで亡くなったこともありました。これも人命第一と人質を救うために、他の命が失われたり、新たな捕虜が出る可能性を覚悟しなければならない方法です。それ以外には平和を説いてテロリスト(の一部でも)を説得するという方法もありますが、盲心的でグループ内でも恐怖支配が徹底しているテロリスト相手では限りなく非現実的です。


今回の事件では、「テロに屈せず、人命第一」をかかげた日本政府の実際の行動は、身代金要求には応じず、(たぶん交渉ルートの)情報収集をするということでした。困難な状況の中で、人質の命を救うことはかないませんでした。


拘束されてしまえば解放の手段が事実上ないに近いという状況で、できることとしては、まずは拘束されない努力をするということしかありません。一時的にISILの勢力圏内への渡航禁止もやむをえないと思います。法的な問題が解決されればですが。一人ひとりも、海外邦人は特に、そして国内でも、自分はテロのターゲットにされるかもしれないという自覚を持たなければいけないのでしょう。安全な国、日本を誇りに思っていた者としてはとても残念。



まとめてみれば、事件が起こる前に事件発生の危険をふまえてもう少し用心できなかったか、というくらいで、政府の対応としては(他の誰がやっても)このようにしかできなかったと思います。ただ、それで終わりにするのではなく、今回の痛ましい結末を教訓に、よりいっそうの危機管理、事前のケース検討の上に政策を行っていってほしいと思います。


●ジャーナリストが紛争地に行くこと


ISILに拘束されたうちの1人、後藤健二さんは、フリージャーナリストだった。今回の渡航目的は、ジャーナリストとしての取材にくわえて、知人の湯川さんの救出を目的とされていたようだ。後藤さんは紛争地における生活者、弱者、特に子供の寄り添った取材をされる方だったそうだ。


日本人拘束事件が明らかになるとともに巻き起こった「退避勧告が出ている危ないところに行ったのだから自己責任だ」という声に対して、一部ジャーナリストから「危険だということがわかるのも、その場に行って伝える人がいるからだ」という反論が上がり、それに対してはさらに「ジャーナリストを特別視している」「ジャーナリストだからといって勝手に行った先で巻き込まれて政府に多大な迷惑をかけてよいわけではない」という意見があった。


ISILでもイラクでも、他の過去の例でも、日本人でも外国人でも、紛争地で拘束される事件の被害者になるのは、たいてい、ジャーナリスト(多くはフリー)かボランティアを含む人道支援関係者である。


そういう人たちは特別なのか、他の人と同様、危険な場所は行くべきじゃない、という意見もあるが、そういう人たちは、特別なのである。


なぜなら、あえてそこに行かなくてもいい人たちと違って、彼ら/彼女らは、その場でなければならないから。


紛争に巻き込まれた人を助けたいと思えばそこに行くしかない.。紛争地の人たちの現状や声を伝えたいと思ったら、逃れてきた人への取材という手段もあるが、その場に行くのはインパクトのある方法であろう。言葉を並べるよりも、1枚の写真、数分の動画がより多くの真実を伝え、より多くの人の胸を打つこともある。


危険は承知の上でのこととなる。それでも、紛争地の被害者を、自分とは関係ないと思えない人、ないものとして見過ごせない人たちが、そこに行く。そして私たちに伝えてくれるのだ。


ジャーナリストであれば、大手の報道機関は社員を危険地に送らない傾向があるから、フリージャーナリストが行くことが多い。大手メディアは彼らから情報を買う。もし日本人は危険地に行ってはいけないと言って行かないとしても、私たちが紛争地の実情を知ることがあるならば、それはどこかの誰かがリスクを負ってその地に行っているのである。


紛争地ではないけれど、福島の原発事故の時、果たしてそこで何が起こっているのかと、知りたくはなかったろうか?そこの住人の方たちがどうなっているかと心配で、一刻も早く現状を知りたくはなかったろうか?実情を知ってこそ、正しい判断も、必要な支援もできるものだ。


危険だからと、紛争地にジャーナリストがまったく立ち入らなければ、私たちが知るのは、紛争当事者が発信することだけになってしまう。当事者は往々にして、自分たちに都合のよいこと、都合よくねじ曲げたことだけを公表する。当然、そこで罪もなく殺された人、嘆き悲しむ人、打ちひしがれて途方にくれる人たちの声は届かない。


人がすることである以上、完全に中立的な真実はありえないけれど、紛争を起こしている人たち以外の立場から現状を伝える人をなくしてはならない。


リスクを負ってその役割を担ってくれる人には敬意を払いたい。


日本の世論をみていると、紛争地でトラブルにあったジャーナリストには非難がましい声が多いし、日本は難民の受け入れに非常に厳しい国だ。遠いヨソの国の人など、どうでもいいのだろうか?自分と自分の家族さえよければ、自己責任の範囲で人に迷惑をかけず暮らしていれば、どこかで親を殺された子供が泣いていようが、少年が強制されて殺人者になろうが、家も家族も失い逃れてきた人が生きる希望を見いでせなくても、どこかのなんとか族の女が奴隷に売り飛ばされても、関係ないのだろうか?


そんなことはないだろう。東北の震災には、日本中の人がその辛さを思い、なんとか手を差し伸べたいと思ったはず。多くの人が、人の痛みをわかり、助けたい、癒したいと願う心を持っている。


誰かの惨状を知ったからといって何ができるわけでもないことも多く、無力感に打ちのめされるだけかもしれない。世界中の人を救えるわけではないと目を背けたくなることもある。


けれど、知れば、何かがかわることもあるかもしれない。知らなければ、ないことになってしまう何かを伝えるためにリスクを引き受ける人を、私は尊敬するし、敬意を払える社会であってほしいと思う。


もちろん、すべてのジャーナリストが使命感を持って命をかけて取材すべきだというつもりは全くない。家族や、身近な愛する人であれば、命などかけてほしくないのが本音である。そして、だからこそ、その使命感や熱意、犠牲を貴いものだと思う。


後藤健二さんは紛争地の弱者に寄り添う活動をされ、不幸にして帰らぬ人となった。恐怖で人々を支配しようとするプロパガンダに使われた映像ではなくて、彼の伝えたかったことを心に残したいという動きに賛同する。


「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」


Rest in peace.