学校で運動会が始まると子供たちの元気な声が聞こえてきて、実に爽やか気持ちにさせられます。

しかし、我々2世にとっては、そんな運動会でさえ、忠節の試みの場と化し、苛められる原因を自分で蒔いて、いや、蒔かされていたのです。前回の②で引用した‘国旗・校旗’に対する歪んだ規則によって、入場行進でさえ、拒否しなければならない子供も多かったはずです。なぜ?先頭に国旗をもって行進するからです。

 

今回は国家・校歌問題です。

これも運動会では欠かせないものですよね。特に校歌は。

 

学校のテーマ曲をを謳うだけで神に反逆する者、国や学校を神よりも讃えた偶像崇拝者として処罰されるのです。

 

卒業式の感動的な場面で、もう2度と会えない同志たちとの別れの場で、共に過ごしてきた学校のテーマ曲を歌う事さえ禁じられたのです。そうです、そんな場でさえ、組織が作り上げた独自のルールが我々を支配していたのです!

 

下に引用した部分にどうぞご覧ください。そして、ご丁寧にも、起立してもいいところ、ダメなところ、そんな細かい部分まで指示しているところにも注目してください。この中に個人の良心を働かせる余地があると思われるでしょうか?これは明らかに一律強制の指示です。

 

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( 学 16–17ページ 国旗敬礼,国歌および投票)


国歌および校歌


国歌は事実上,一種の賛歌もしくは音楽に合わせてささげられる祈りであることが少なくありません。アメリカーナ百科事典(1956年版,英文)はこう述べています。「祖国に対する愛や自分の国に対する誇りが大抵の国歌の基調をなしており,多くの場合,宗教感情に愛国心が混じり合っている」。実際,愛国主義的な歌は,国旗に対する忠誠の誓いの言葉の中に具体的に表現されている同じ基本的な考えを言い表わしています。それに,今日の世界をすっかり分裂させてしまった国家主義的な誇りを支持する聖書的な根拠はありませんから,私たちは地上のどの国家を称揚する歌を歌うことにも加わりません。―使徒 17:26。ヨハネ 17:15,16。


国歌が演奏されるとき,普通,起立しさえすれば,その歌に表現されている感情を共にしていることを示せます。そのような場合には,証人たちの若者は席に座ったままでいます。しかし,国歌が演奏されるとき,私どもの若者たちが既に起立しているのであれば,わざわざ座ったりするには及びません。その若者たちは国歌を歌うためにわざわざ立っていた訳ではないからです。一方,あるグループが起立し,そして歌うことを求められたなら,私どもの若者たちは敬意を表わすために起立します。しかし,歌うことを避けて,その歌に表現されている感情を共にしているのではないことを示すでしょう。


校歌は国歌と同じ範ちゅうに入りますか。そのとおりです。学校内の人々の校歌に対する見方は国民の国歌に対する見方と同じです。校歌は愛校心と熱情をこめて歌われる場合が少なくありません。私どもの若者たちはそのような歌に表現されている感情を共にすることはありません。私たちは,エホバ神を賛美する以外は,人間の組織や機関のどれに対しても賛美の歌は歌いません。

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そうですか…では我々は脂’sや長老、組織を讃える歌も歌えません!( ̄へ  ̄ 凸