①の記事でお伝えした通り、この小冊子は本来、JW信者に対してというよりは、学校の先生に対して、JWの教理について説明し、理解を求める、というスタンスのものです。

 

しかし、学校に対しての説明が、間接的にJW信者親子に対しての実質的な指示書と化しているのです。

JWの子どもたちは〇〇の立場をとり〇〇はできませんので、協力お願いします、というわけです。

 

こんなことを言われた日には、末端信者は従うしかないですし、従わなければ死刑です。やらしいですね。直接的に言うんじゃなくて、暗にそう思わせるやり方です。なにかWT側が訴えられたらどうなりますか?信者の益の為に、体を張って守ってくれますか?いいえ。『自己責任・自己決定』で済まされます。輸血と同じです。WTは‘そんな命令なんて、私たちは出した事なんてありません。各自が聖書によって訓練された良心によって、自分で決めた事です。’これで済まされてしまうんです。

 

今後、予告した通りに、WTJW側の主張についてこの小冊子から引用していきます。基本的にそのもの自体を『晒す』形ですので、あまりツッコミは多く入れないようにしたいと思います。自由に読んでください、逆に信仰を強めてしまわれる方もいるかもしれませんが、それも自由です。

 

しかし、学校側へこのような説明がされてしまえば、JW家族はどのような決定をしなければならないか、決定の自由はあるのか、個々人の良心は認められているのか、その証言をさせられた子供たちは、どんな影響があるか、どんな扱いを周りから受けるのか…その辺りに注目なさってください。

 

 

では冊子に沿っていきます。まずは国旗校旗問題からスタートです。

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(学 14–16ページ 国旗敬礼,国歌および投票)


国旗敬礼


私たちはどこの国の国旗にも敬礼いたしませんが,これは決して不敬を示そうとしているのではありません。私たちは自分がどんな国に住んでいようとも,その国の国旗を確かに敬い,国の法律を順守することによってそのような敬意を示します。私たちはどんな種類の反政府活動にも決して加わりません。実際,現在の人間の政府は神が一時的にその存在を許してこられた「神の取り決め」を成すものであると私たちは考えております。それで,私たちはそのような「上位の権威」に対して税を支払い,貢ぎを納め,誉れを帰するようにとの神からの命令のもとにあるものと思っております。―ローマ 13:1‐7。


『しかし,それでは,なぜ国旗敬礼を行なって国旗を尊ぶことをしないのか』とお尋ねになるかもしれません。それは私たちが国旗敬礼を一種の崇拝行為と見ているためです。私たちは国旗敬礼をやめるよう他の人たちに勧めることはいたしませんが,私たちの神エホバ以外のだれに対しても,あるいはどんなものに対しても,私たちが崇拝行為と考える事柄を良心的に行なうことはできません。(マタイ 4:10)もちろん,国旗が神聖なものである,あるいは国旗敬礼が崇拝行為であるとは考えていない人々も大勢います。しかし,一般の権威者がこのことについて述べている次のような事柄を考慮してみてください。


「国旗は十字架と同様神聖なものである。……国旗に対する人間の態度に関連した規則や規定には,『国旗に対する礼拝』……『国旗に対する崇敬』,『国旗に対する専心』などの力強い,意味深長な言葉が用いられている」―アメリカーナ百科事典(1942年版,英文),第11巻,316ページ。


「国家主義の信仰の主要な象徴ならびに崇拝の中心的対象物は国旗であり,国旗に『敬礼する』ため,国旗を『ちょっと下げてまた上げる』ため,国旗を『下げる』ため,また国旗を『高く掲げる』ための奇妙な礼拝形式が考案されてきた。国旗が通過する時,人々は脱帽する。詩人は国旗をたたえて頌歌を作り,子供たちは賛歌を歌う」―「アメリカ人の信仰と崇拝の仕方」(1952年,英文),J・ポール・ウィリアムズ著,359,360ページ。


上記の見解は極端過ぎると感ずる方々がおられるかもしれません。しかし,興味深いことに,アメリカの植民地時代には清教徒が英国の国旗に対して,その「聖」ジョージ十字章ゆえに異議を唱えました。ブリタニカ百科事典(1910‐1911年版,英文)によれば,清教徒は,「母国に対する何らかの不忠節からではなく,偶像に類する象徴物とみなされるものに対する良心的忌避ゆえに」そうしたのです。


十戒の一条は,『上は天にあるもの,下は地にあるもののいかなる形』のものでも,それを用いて崇拝を行なうための対象物を作ることを禁じています。(出エジプト記 20:4,5)クリスチャンとして私たちもまた,『自分を偶像から守る』ようにとの聖書の命令によって拘束されていると感じております。―ヨハネ第一 5:21。


先生方が私たちの信条を理解してくださり,私どもの子供たちがその信条を守るのを助けてくださるなら,私たちはうれしく思います。下記の注解が示すとおり,国旗敬礼は崇拝と関係があるという,私たちの取ってきた立場に理解ある態度を示してきた人たちもいます。


「クリスチャンは……[ローマ]皇帝の守護神に犠牲をささげる……ことを拒んだ。―これはおおむね,今日で言えば,国旗敬礼あるいは忠誠の誓いの復唱を拒否することに相当する」―「死をも辞さない人々」(1958年,英文),ダニエル・P・マンニックス著,135ページ。


「国旗敬礼は宗教的専心の行為であるというのが主要な前提である。……この見方は奇妙かもしれないが,聖書的な裏付けが全くないわけではない。……もし敬礼することが一種の宗教的行為であれば,たとえ敬意の対象物が価値あるものであれ,それは神の律法によって禁じられているのである。言い換えれば,敬礼の拒否は必ずしも国旗または国に対する不敬を意味するものではない」―「カエサルに返すべし。国旗敬礼論争」(1962年,英文),ホバートおよびウィリアム・スミス両大学,政治学助教授,デービッド・R・マンウォーリング著,32ページ。


私たちは国旗敬礼を拒むからといって,いずれかの政府,またはその支配者に不敬な態度を取るつもりは少しもないことを強調しておきたいと思います。私たちはただ,ネブカドネザルがドラの平野に建てたもの,あるいは現代の諸国民の国旗のような,国家を表わす像に対して,崇拝行為として身をかがめたり,敬礼したりするようなことはしないという意味です。(ダニエル 3:1‐30)意義深いことに,米国の最高裁判所は以前の判決を破棄した歴史的な裁定の中で次のように述べました。


「国旗敬礼や誓いを強要する地方当局者の行動は,その権限に関する憲法上の限界を超えており,知性と精神の領域を侵害するものであると我々は考える。その領域に官僚支配が一切及ばないようにするのが我が国の憲法修正第一条の目的なのである」―「ウェスト・バージニア州教育委員会対バーネット」(1943年)。


それで,他の人たちが敬礼をし,忠誠を誓う際,私どもの子供たちは国旗敬礼の式の間じゅう静かに立っています。しかしもし,何らかの理由で,国旗掲揚の式が,ただ起立しているだけでもその式に参加している証拠となるような仕方で執り行なわれるのでしたら,私どもの若者たちは席に腰掛けたままでいます。その上,私どもの若者たちは愛国主義的なパレードに加わって行進をしません。行進をするなら,そのパレードによって尊ばれるものを支持していることを示すことになるからです。私たちは中立の立場を保ちます。
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