またまたリブログさせてもらいます。いつも考えさせられる話題をありがとうございます。コメント返信だと長くなったので記事にします。
 
 
 
さてさて、、、。
『老人になってまで、経済的自立もせずに、宗教団体(の指導者)に留まって、子どもたちの支援した金で寄付までしてる』
「大元はそこやねん!」「それ人としてどうなん?恥ずかしくないの?」ということに、親御さんが全然気付いてないところが何とも悲しいですね。それが洗脳の怖さなのかもしれないですが、そりゃ悪感情抱くな、と言う方が無理な話ですね。身近な人であればあるほど難しいでしょう。( ; ゚Д゚)
 
 
 
あとは、、、。
確かに聖書には復活という概念が載せられているので、そこを突く気はないのですが、こと【‛JWが掲げる’復活の教理】はやはり人をダメにしますね。特に幼い頃に教えられると本当に『人間としての感情』を歪められます。
 
 
これは前にも話しましたが、JWの葬式の話でさえ遺族に何のメリットもなく、ただただ残された我々は◯◯兄弟のように歩み続けよう!みたいな話に置き換えられていたり、葬式(追悼式)やのに同窓会みたいな雰囲気になっている場合が多々見受けられること、あまり死を嘆き悲しむのは復活の教えに対する信仰の欠如だからあまりふさわしくないだとか、、、
そういうのを目にすると、やはり人として何かズレてるなと感じざるを得ません。ま、自分もそちら側にいただけに反省もありますが。( TДT)
 
 
『死んだら天国』位のファジーなものでいいと思います。そこにリアル感を出しすぎたのがjwの犯した間違いなんじゃないかな。
 
 
ところで、、、。
天国や地獄とかいうとjwは怒り出しますけど、元々はこの世で生きている間は、神様の前にも恥じないような生き方をしようね、という動機なんですから。別に害はないと思うんだけどね。結局自分等も春髷で滅びる、組織に固くついてたら楽園で永遠の命、と主張しているんだから変わらないのにね。
 
 
さて、、、。
復活の教理に効き目があるとすれば、ま、死ぬ間際でしょうね。あとは身近な人がそうした状況にある時。ブログ主のほすまんさんもそんな状況になったらJWに戻りたいとか言ってるかも…と冗談めかしに言っておられましたが、一方で冗談ではなくなるような気持ちになってしまあうのかもしれませんね。それもとてもよくわかる気がする。自分だってわからない。
 
 
でもそれは、結局痛み止めの『合法麻薬』みたいなもの。効果はあるがそれは極々僅かなケースであり、あくまでもその場凌ぎであって根本的な解決策にはならないこと、そして健常者がそうした麻薬を使えば、まして乱用すれば心身ともに悪影響が及んでしまうのと同じでしょうね。
 
 
一瞬だけでも救われる人がいる以上、復活の教えについて全否定はできませんけどね。でも「百害あって一利有り」ってところでしょうか。宗教の教えってのは、あくまでも『容量・用法をお守りください』『効能には個人差があります』という点を忘れてはいけないと思います。
 
 
神さまがおられるとして、、、。
我々人類に「死」という敵が立ちはだかっている以上、復活の希望そのものというよりは、人の死という悲しみや絶望感に打ち勝つための力を与えてくれる、そんな存在なのではないでしょうかね。人にはそんな力が備わっているのだと思っています。死という絶望の中でも神さまが横にいてくださるという安心感や希望を教えているのが聖書であり神でありキリストではないだろうか、とも思います。復活というものは補足的なオマケみたいなもんだと、そんな感覚です。JWの掲げる復活の教理のようにリアル感を増すほど本質を見失っているような気がしてなりません。
 
 
ま、『だーかーらー!その打ち勝つための力が復活の教えなんだよ!わかんねーのかよ!』と主張されてしまうと、もう泥沼無限ループにハマってしまうのですが。「あ、はい、わかりません」としか言えないです。(;^_^A((笑))