先週、今週とバプテスマ特集。主題は『バプテスマを受ける用意ができていますか』

 

 

相変わらず『エホバを愛している人は~するハズです』『キリストに従う人は~しようとは思わないハズです』という強迫記事でした。

 

 

ま、あまり細かいツッコミはしませんが、私からは1つだけ引用したいと思います。今日の記事で1番モヤモヤした部分です。


 

(4節)※ものみの塔2020年3月号研究用 研究11より引用

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献身とは何ですか。バプテスマを受ける人は,献身していなければなりません。献身とは,エホバに真剣に祈り,「これからはずっとあなたに仕えるために生きていきます」と伝えることです。エホバに献身する人は,「自分を捨て」ます。マタイ 16:24を読む。)献身した人はエホバのものになります。それは光栄なことです。(ロマ 14:8)「これからはあなたに仕えることを優先します。自分の好きなように生きることはしません」と言ったからです。献身は誓約,つまり神への厳粛な誓いです。エホバは,そのような誓約をすることを私たちに強制しませんが,私たちが誓約したなら果たすことを求めています。(詩 116:12,14

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あ~~!サブイボ出てきた!

『自分の好きなように生きることはしません。』

 

 

前半はともかくこの言葉いるかい??

優先しますって言ってるんやからそれでいいやん。

もはや自己否定という言葉を飛び越えていますね。そんなことを望むのならロボットでも造っといてよ、って感じです。それを自由意志の下に要求するとか、どんだけ俺様の神さまやねん!

 

 

でもきっとあれだね。これはバプの最後の2つの質問に対応してるのだろうと思う。

 

まず、

1番目は「神やイエスを信じているか?神に献身したのか?」というもの。

これは『これからはあなたに仕えることを優先します』という部分に当てはまるのだろう。

 

一方、

2番目の質問は「これからはエホバの組織と働くJWであることを受け入れるか?」というもの。

これが後半部分『自分の好きなように生きることはしません』という部分になるのでしょう。

 

 

ま、この2番目の質問がキリスト教における『献身』や『バプテスマ』に関して、なーんも関係のない、‛余計な’‛作為的な’‛詐欺的な’質問であることは、もうたくさんの人たちが論じておられるので、今ここで扱うことはしませんが、JWという宗教は『抱き合わせ販売』のような仕方で「神に対する献身」と「組織に対する献身」を宣言させるという方法を取ってるわけです。1番は肯定、2番は否定、はできないシステムです。組織に対する絶対服従がセットでないと、神さまやイエス様にお仕えすることをできなくしています。本当に悪辣な方法だと思います。

 

 

そして4節の最後の部分、サブイボさらに倍!って感じです。

『エホバはそのような誓約をすることを私たちに強制しませんが、私たちが誓約したなら果たすことを求めています』

 

 

はいはい、十分強制してますがな、ちゃんと正直に書きなはれ!なんなん?「強制しないが求めている」って。悪徳政治家の‛忖度’を思わせるような書きっぷりだと思われませんか?これ、信者に対しても神さまに対しても失礼な言い方だと思いますけどね。エゴな臭いがプンプンします。純粋な神への愛や信仰心、そして神さまが示される無私の愛、それらに泥を塗るような感じです。だってそれらの動機を疑っているのですから。

 


きっと統治隊の皆様がその点で模範(笑)なんでしょうね。命令されなくても忖度して物事を進めた人間を評価していたりするんじゃないの?と邪推せざるを得ません。だから自然とこういうフレーズが出版物や大会の話の端々に表れているのではないでしょうか?最近のビデオの「でも統治体が天にいくことは私たち確信しています!だって彼らは云云かんぬん…」の発言みたいにね。

 

 

ホンマ今日の記事だけ見ていると、信仰心なくなった私から言わせると、なんちゅー神さまや!こっちから願い下げや!と思ってしまいますね。

 

 

逆に信仰心がまだ多少あるとして考えてみると、やはり前半の『自分の好きなように生きることはしません』って言葉には違和感を覚えます。だってそうでしょ?キリスト者にとって生き甲斐って何よ?神さまや聖書が好きな人にとって人生ってどうなのよ?

 


自分の好きなこと=神さまが望まれること

 

ってことじゃないの?そりゃ人間だから色々悩んだり苦しんだり、聖書の言葉に従うのが難し時もあるでしょ。でもいつどんな時でも神さまやイエスが手を出してくれているって確証(=信仰)があるから、あくまでも自分の生活は神さまに向いているのではないでしょうか。そしてそれを神さまは(その人自身を)受け入れて下さっているのではないでしょうか。



なんでもかんでも、これはふさわしい/ふさわしくない、霊的だ/世的だ、などと『なにか特定の行動』で神さまを喜ばせるといった思考だから、自分の好きなような生き方をしません、などというフレーズが出てくるのではないだろうか?そんな風にさえ思えます。



(上手に言葉に表すことができず、読者の皆さまにおかれましてわかりにくい書き方をして申し訳ないと思いますが、)私個人としてはそういう意味で『自分の好きなように生きることはしません』って言葉には違和感を覚えます。




バプテスマねぇ、、、

費用を考えろだの、起きうる問題について考えろだの、祝福はスバラシイ!だの、ごちゃごちゃ書いてあったけど、2世信者から言わせたら『単なる通過儀式』にしか過ぎませんでしたけどね。小学生から中学生になりますよ、みたいな程度、ただそれだけ。でも勝手に約款が増えてただけ、やること、責任が増えただけ。わけもわからずサインさせられただけ。そんな感じです。