先日は『秘密をバラされても…』の記事に多くの反響をいただきました。

 

 

「想像してみてください。友人に相談に乗ってもらいます。そして別れ際に『この話は絶対に秘密にしておいてね』そのようにお願いします。ところが、翌日会衆中のみんながその話を知っています。そんな時、どうするでしょうか?『同じクリスチャンなのになんで!?』と憤慨するでしょうか?世の精神に倣って仕返しをしようとするでしょうか?絶対に許さないと決意しますか?長老のところに行って自分のされたことについて話しますか?そのようにして自分の正義を貫くでしょうか?自分自身が持っている『愛』は他の人の違反や罪によって試されることがあります。私たちはそうした『世』の風潮に流されることはありません。」

 

 

記事を書いてからも、どうしてもこのフレーズが頭からこびりついて、あれこれと考えてたんですよね。たしかに聖書には『愛すること』や『許す』ことについて言及されているので、そのものは間違った考え方ではないのだと思いますが、あの適用の仕方はあまりにも横暴ですし、頓珍漢なものです。その時の記事でも述べましたが、下手すりゃ人を罪悪感に陥れるような言い回しでした。

 

 

なぜなんだろう…

ハッと気づいたことがあります。


それは、やはりJWという組織が‘キリスト教’ではない、ということです。そう。記事のタイトルにもしましたが「キリストに注目」させれば、このフレーズも蘇るかもしれません。

 

 

どうしても「秘密の話がばらされたら…」のフレーズを使わないといけないのなら、こんな話の展開ならどうでしょう?少し長いですが前後関係も必要なんで書いてみます。仮に神権学校で即興の話(←今や死語。笑)をしろ、と言われれば私ならこんな感じで話します。3分位の話と思って聞いていただけると助かります。


 

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キリストの持たれる愛に倣うとか許すというのはどういうことでしょうか?イエスが地上におられた時に弟子たちにどのように接したかを思い起こすことができます。弟子たちも数多くの失敗をしました。中には何度も同じことを言われていたのに同じことで争いを起こしたこともあります。「誰が1番偉いのか」それで弟子たちが喧嘩を始めた時、イエスはどのように接されましたか?感情ににまかせて怒鳴り散らしたでしょうか?徹底的に間違いを論破してグゥの音も出ないほど説教したでしょうか?そうではなかったですね。イエスは弟子たちの足を洗い、手本を示されることで重要な諭しを与えました。その教え方は問題の答えを与えると共に、弟子たちへの「愛」を示すことにもなりましたし、争いをしていた彼らを「許す」ことにもなりました。まさに一石三鳥というところでしょうか。結局それは怒鳴るよりも、論破するよりも、はるかに弟子たちの心に響いたことでしょう。

 

他にも色々思い起こせるでしょう。ペテロが主を3度否認した時も、イエスが夜通し祈られてる時に弟子たちが居眠りしてしまった時も、キリストは同じように諭されました。だからこそ、その教え方が、愛を示す方法が、記録に残され、今日に至るまで聖書に保存されているのです。それを私たちは今読んでいるのです。

 

とても高尚な愛なのですが、聖書によるとそのような「愛」を示すように私たちにも勧められています。イエスは「隣人を自分自身のように愛する」という律法が与えている以上の愛、「自分を他の人のために進んで投げうつ、犠牲にする」という愛を示すよう私たちにも教えられました。

 

これは本当に難しいですね。自分自身のように愛することはできても、犠牲にすることまではできないかもしれないです。少し極端な例ですが、このような場面に遭遇してしまったらどうしますか?

 

「友人に相談に乗ってもらいます。そして別れ際に『この話は絶対に秘密にしておいてね』そのようにお願いします。ところが、翌日会衆中のみんながその話を知っています。」

 

みなさんどうですか?許せますか?私なら無理です。(笑)信頼関係が一発で崩壊してしまう案件かもしれません。人間不信に陥るかもしれません。

 

でもね。イエス様ならそれができてしまうのでしょうね。そう思いませんか?


そう考えるとほんとうに私たちはキリストに引き寄せられますね。他人の為に命をなげうつ程の愛というのは、そうした問題をも乗り越える力があるのです。


今考えたいのは、どのようにこの問題を解決するのか、その方法云々ではなく、我々が注目すべきなのはこのキリストの懐の深さといいますか、やはりその「愛」の大きさに目を向けることです。だからこそ、私たちはそんなイエスに惹かれるのではないでしょうか。その教えが素晴らしいと思えるのではないでしょうか。使徒パウロも「キリストの愛が私たちに迫る」という表現を用いましたが、まさに「迫る」というのはそのような感覚なのかもしれませんね。

 

キリストが現代における一つの事例をどのように扱われるか、1世紀と同じ土俵に置いたり、分析したりしたりすることはナンセンスかもしれませんが、イエスがどれほど大きな愛を持っているか、どれほど人を許すことができるのか、そうした点に注目するならば、私たちがこの現代において人とどのように関わっていくべきかを考えさせられます。

 

キリストは『自分についてくるよう』言われました。『あなた方のために手本を示した』とも言われました。イエスが示された高尚な「愛」や「許し」、それを私たちも示すことができることを意味しています。


しかしながら私たちはイエスの足元にも及びません。例え話で挙げましたが「秘密の話をバラされて」簡単に許せるほど、私たちは人間できていません。怒ったり落ち込んだりしてしまいます。でも安心してください。イエスは別の記述で『自分の荷は重荷ではなく軽い』と言われました。絶対に相手をすぐに許さないといけない、イエスは我々のために犠牲になったのだから、それに比べたら自分のトラブルなんて小さなものだ、そのような感情でもって自分を制しようとするのは、(そうできる人はもちろんそれでいいのですが、)煮えたぎったお鍋に無理やり蓋を被せようとするのと同じです。私も含め多くの人にとっては厳しい話ですね。愛や許しのおきてが私たちの「重荷」になってしまうことはイエスも望んでおられるわけではありません。


『くびきを共にして』下さることも私たちは知っています。ですから何かトラブルに巻き込まれて悪感情が沸いてきてしまっても、その思いを相手ではなくイエスに向けてみてはいかがですか?私たちはいつでも神さまに祈ることができることを思い出すことができます。きっと神さまもイエスも悪感情を抱いてしまったそんな私たちを進んで許してくださるのだと思います。その時、我々は神さまやイエスの愛を改めて感じるのだと思います。そうすることで心の平安を取り戻すことができるかもしれませんね。

 

そうすることで、危害を加えられたと思える相手に対して、見方を少し変えることができたり、もっともっとそのトラブルについて冷静に客観的に考えることができるようになるのであれば、それは素晴らしいことです。イエスのような愛や許しをすぐに表すことができないとしても、その努力を必ず見て下さっていると信じることができます。


努力が報われなくとも、問題が一向に解決にしないように思えたとしても、それでも私たち1人1人ができることは祈ることだと思います。悪感情が沸いてしまうたびにキリストに近づいて、そして多くの許しと愛をいただくのです。それをほんの少しでも自分がその受けた愛を周りの人たちに還元してゆく。それが私たちクリスチャンの方法です。


そうすることで、大きすぎる問題はともかく、日常の些細なトラブルについては、今までの自分よりもずっと早く相手を許したり愛を示すことができるようになることでしょう。そうなればもう私たちのいわば「勝ち」です。今日考えたクリスチャンの方法を駆使して、自分の愛の範囲を少しずつ少しずつ広げていけばいいからです。


私たちはイエス様が示したような愛や許しの境地に達することはできないかもしれません。でも「自分についてくるよう」我々に勧めてくださっているのですから、私たちもそんな素晴らしい特質を示すことができるのだ、ということを教えてくださっているのかもしれませんね。これからも私たちは神様やイエスの愛や許しをたくさん受けながら、その模範に倣っていきたいものですね。


今日の目立った点は以上です。

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すみません、長くなって。

聖句を使ってないとか、言い回しがおかしいとか、細かい突っ込みはご勘弁を。ニュアンスだけ伝われば十分です。m(__)m


もし自分ならどんな話なら聞く気になるだろうと考えたらこんな話になりました。なかなか集会や大会ではこのような話は聞けませんが。


でもキリスト教なら、「ジーザスクライスト スーパースター」の精神でいいのだと思います。それがないのならキリスト教とは言わずに、「エホバ教」なり、うちのおかん流にいうと「ものみの教」と名乗るべきですね。


ま、聞けないものを書いても仕方がないのですが、私としてはこれでモヤモヤした気分が少し晴れました、、タイトルにしたように、やはり今のJWは本当の意味でキリストに注目してないや、ということを確信できました。講演で物凄い違和感を感じたのも当然だと思います。


なんか自己満の記事になってしまいましたが、お付き合いくださりありがとうございました。