先日の講演でさ、こんなこと言ってたのよ。

 

愛だの許せだの、そんな内容の話ですわ。

 

 

「想像してみてください。友人に相談に乗ってもらいます。そして別れ際に『この話は絶対に秘密にしておいてね』そのようにお願いします。ところが、翌日会衆中のみんながその話を知っています。そんな時、どうするでしょうか?『同じクリスチャンなのになんで!?』と憤慨するでしょうか?世の精神に倣って仕返しをしようとするでしょうか?絶対に許さないと決意しますか?長老のところに行って自分のされたことについて話しますか?そのようにして自分の正義を貫くでしょうか?自分自身が持っている『愛』は他の人の違反や罪によって試されることがあります。私たちはそうした『世』の風潮に流されることはありません。」

 

 

 

いやいや、普通許さんやろ!信頼を一発で失う事案ですやん。(笑)

それでも許せとか。

自分自身が鬱になってしまいますよ。『なんで私はこの人を許すことができないんだろう。』『こんな愛のない自分は神さまに喜ばれない存在だ。』って感じでね。

 

 

・無茶な要求をする

・できない自分を否定させる

・こんな助けがあると組織の提案をみせる

・神さまに認められるにはこれしかないと思わせる

・1から100まで組織に依存する

・無茶な要求をする

 

…と永遠に続くわけですな。

 

 

『愛』だの『許す』だの…それはたしかに聖書が奨める命令、倫理基準なのでしょうけど、トップダウンで、しかもそんな極端な事例を引き合いに出してそれでも『愛を示せ』『違反を許せ』と圧力をかけてくるやり方は感心しませんね。『キリストの愛が自分に迫る』とかも言いますけど、それは自分自身に迫ってくるから感動するのであって、無理矢理口をこじ開けられて「食え~!」と強要されても、なーんのありがたみも感じませんけどね。