リブログさせて頂きます。
いつも的確なツッコミ記事お疲れ様です。
一般社会への憎悪に満ち溢れている内容でしたね。神への愛を培う以上に、この世への憎しみを培うよう助長してるようにしかみえない記事でした。
世は…、世は…、と列挙してはいますが、その前提自体がおかしいことになぜ誰も気づかない。
世であれ、家族内であれ、友人同士であれ、会社内であれ、そして忘れてはいけない点として、宗教組織内であれ、『どこの世界でもいい奴もいれば、悪い奴もいる』のです。
まるでエホバの証人だけが善人の集まりで、それ以外は悪人の集団である、というような決めつけは、何かを語る以前に前提としておかしいのです。
そりゃ、一般社会には、高慢な人、名声だけを追い求める人、金の亡者、そんな人もいるでしょう。でもそれはJW内でも同じこと。3節にはルカ20章の聖句が引用されていました。
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46 「書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み,市の立つ広場*でのあいさつと,会堂の正面の座席,そして晩さんでは特に目立つ場所を好みます+。47 彼らは,やもめたちの家を食い荒らし+,見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう+」。
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開拓者、長老、奉仕の僕、巡回監督、ベテル奉仕者、支部委員、統治体…。
現代に当てはめてみなさいよ。思いっきり目立ってるじゃないですか!JW世界において、それはもはや単なる職務だけを表す言葉ではないですよね。厳しい言い方をすれば彼らだって、当時の宗教指導者と何ら変わらないのです。17節でイエスに対して『イエスは天での‘昇進’を求めたりしなかった』なんて書いちゃってますけど、私から言わせたら‘なんて失礼なこと言うんだ!’とイラッとしましたね。‘昇進’だの‘立場’だのそんなことばっかり考えてる上層部の心が見事に表されているなぁと感じました。
だから全ての人が気をつけるべきことであって、世は…世は…という問題ではないのにな、と毎回思いますね。別に今回の研究記事のように『神に認められる』ことの大切さを説く記事があってもいいと思います。しかし、一般社会を憎しみ嘲りながら論考を進めていくのは、やはり筋違いな気がしてなりません。
それにどうなんでしょう。
世は貪欲だのどーのこーの言ってますけど…よく考えてみ?
学校に行き、就職し、仕事も頑張り、家族をもち、子どもたちを送り出し、残りの人生を楽しむ、そんなことが「高慢」であったり「名声」を求める生き方なんでしょうか。前述したとおり、たしかにそんな人もいるでしょう。しかし大概の人はそんなこと思ってはいません。もちろん今の厳しい経済事情がそうさせているのかもしれませんけど、『贅沢こそ幸せの極み』なんて思っている人間の方が少ないと思いますし、たとえ一般社会でもそんなことを目標にしているというのであれば、きっと『キミはなにか大切なことを見失っているよ』と説教されるのではないでしょうか。
意地悪な言い方になるかもしれませんが、では一方、JWは何を求めているんですか?神との友情?地上の楽園?永遠の命?天に行く?王様になる?イエスと共に支配する?不滅性不朽性?いやいや…いくらそのために現代ストイックな生き方してるのかもしれませんけど、あなたたちもたいがい『貪欲』ですよね!?それらが欲しいために人としての自然の情愛を捨ててまで青い神さまに仕えているのですもんね。‘自己犠牲’という名の生き方の裏には、全くもってエゴの塊が見え隠れしてますけど気のせいでしょうか?
あとの細かい内容についてはリブログ記事の通りです。
私からのツッコミ…というか、この記事に対する総括を6-7節を使ってまとめてみたいと思います。このような記述が載せられていました。
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6 わたしたちは天の父との貴重な関係を保たなければなりません。パウロはガラテアのクリスチャンに,世の「弱くて貧弱な基礎の事柄」の奴隷にならないようにと述べました。世で成功して認められようとするなら,そのような奴隷になってしまいます。(ガラ 4:9)ガラテアのクリスチャンは神に知られるようになったのに,むなしい事柄に「逆戻りし」ていました。要するにパウロはこう言っていました。「ここまで頑張ってきたのに,愚かで無価値な事柄に逆戻りするのはどうしてですか」。
7 そのようなことはわたしたちにも生じ得ます。わたしたちはエホバを知るようになった時,パウロのように,サタンの世での名声を手離したことでしょう。(フィリピ 3:7,8を読む。)高等教育を受けたり,昇進したり,大金を稼いだりする機会を断わったかもしれません。音楽やスポーツの才能を生かして名声やお金を得るチャンスを後にした人もいるでしょう。(ヘブ 11:24‐27)せっかく良い決定をしたのに,今になって「もったいないことをした」などと考えるのは愚かなことです。そのような見方をするなら,自分が一度は後にした世の「弱くて貧弱な」事柄に逆戻りしてしまうかもしれません。※
※「貧弱な」という語を「役に立たない」,「無価値な」,「惨めな」と訳している聖書翻訳もあります。
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この記事ではこの中のガラテアの聖句が1番言いたいことのように思われます。信者の大量離脱が止まらないのでしょうね。必死さがよく伝わってきます。
上層部さんよ、よく覚えておけ!
我々は『ここまで頑張ってきましたが、JWな生き方が愚かで無価値な事柄であることを確信したので、脱出させてもらったのだ!』ということを。
聖書そのものは価値ある書物であるとは思います。神さまやキリストも否定する気はありません。しかしWTの教えは全体として『弱くて貧弱な事柄』であると考えます。『貧弱な』と言う言葉には「役に立たない」、「無価値な」、「惨めな」という意味合いもあります。