主題は

『上にある事柄に

     自分の思いを留めなさい』

というものです。


今回の10/15に載せられている記事は主に脂注がれた人たちへの

メッセージの要素が強いのでしょうか。それにしても…

前の記事でも書きましたけど、

天的な希望を持つ人たちと、地的な希望を

持つ人たちへの要求事項を一緒にするな!

と言いたいです。


私的にはこの教理自体???になってきていますが、仮にこの教理が

正しいとしても、受ける報いは文字通り天と地の差がありませんか?

脂な方たちは死んですぐに蘇ってイエスと共に王座に就くわけですよね?

一方、地上で大患難を通り抜けて楽園になった人間はというと、結局は、

不完全さという病気は1000年かけて治さないといけないわけです。

1000年統治の終わりに、また最後の艱難が待ち受けているわけです。

そりゃぁ、報酬がデカイものを期待するなら、それこそ、求められるもの

も、それなりにデカイのは当たり前です。

もちろん、宗教者にとって、そして神を崇拝する者としてのスタンスとい

うのは‘損得感情(勘定)’で動くものではないと思いますけど、やたら

めったらハードルだけガンガン上げるやり方もどうなのかと思いますね。


さて、内容ですが、1節で吹いてしまいました。


※引用は特に注記がない限り、塔2014/10/15 第4研究記事からのものです。。


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1世紀のコロサイ会衆の一致は脅かされていました。兄弟たちの中には,すべての人はモーセの律法に従うべきであると主張する人もいれば,極端な自己抑制など,異教の禁欲主義を唱道する人もいました。使徒パウロはそうした偽りの教えの影響を抑えるためコロサイ人に激励の手紙を書き,次のような警告を与えました。「気をつけなさい。もしかすると,人間の伝統にしたがい,また世の基礎的な事柄にしたがってキリストにしたがわない哲学やむなしい欺きにより,あなた方をえじきとして連れ去る者がいるかもしれません」。―コロ 2:8。

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知ってる知ってる~!キリストの教えよりも、律法大好きな集団!w

知ってる知ってる~!極端な自己抑制や禁欲主義をすすめる集団!ww

「気を付けなさい。もしかすると、組織の伝統に従い、また統治鯛の基礎的な

事柄に従ってキリストに従わない(統治鯛の)哲学やむなしい欺きにより、

あなた方を餌食として連れ去る者がいるかもしれません」

という解釈なのかと思いましたが、違いますか?

いきなり自虐ネタから、今日はスタートです。


今週の記事の(WT的な)ポイントは次のようなものです。

・天的な人も地的な人も「上にあるものに」目を留める必要がある。

・上にあるものに留める、とは、神とその王国の関心事を生活の中で

 第一にすることです。

・サタンの攻撃(偽りの推論、世の哲学など)により霊性が危険な状態だ。

・アブラハムはカナンの地に移住しました。文字通りの天も仰いで、神の

 約束を常に心に留めていたに違いない。

・モーセもエジプトでの権威や名声や富を追い求めるのではなく、幼い頃から

 霊的な教育や訓練を大切なものとすることにより、上に目を留めた。

・私たちも「行動」「精神態度」「業を支援すること」によりそうすることができる。


ま、そんな感じですが、今回の記事で組織が1番伝えたいメッセージは

ここだと私は思いました。9節です。


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上にある事柄に思いを留めていないと,約束の成就が遅れているように思えて,霊的な活動の手を緩めることになりかねません。例えば,あなたは以前,開拓奉仕や他の特別な奉仕のために犠牲を払いましたか。今はどうですか。アブラハムはエホバのためにできる限りのことを行ない,将来の祝福を思い見ました。あなたもそのようなアブラハムに倣っていますか。(ヘブ 11:10)

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自分たちの預言のミスなんて、棚に上げてしまって、この言い方…


完全に‘脅迫’ですね。怖い怖い…。Σ(゚д゚;)


本当に人を落ち込ますのが大好きですね、WTは。

もちろん、この文章は、以前の自分の活動と今の自分の活動を比較してみて、

もし昔ほど王国の業を優先していないとしたら…それは地上の事に目を向けて

るんじゃないの?ちょっと考えてみな!でもそうでないんなら、今できることを

精一杯やってるならそれでいいよ、ってポジティブに捉えることもできますけど、

JWの方達の特性を考えてみると、自分を追い込んでしまう人の方が多いんじゃ

ないでしょうか?以前ほどできないなんて、なんてアタシは悪い子なんだろう…

みたいに。「言葉」の威力ってあると思うんです。だったらやっぱり「言葉」の選択

1つ1つに細心の注意を払って欲しいものですね。


約束の成就が遅れている…って、お前らが勝手な予測ばっかりして、「時」に

信仰を持ってしまう人たちを大量生産したんじゃん!責任取れよ!( ̄へ  ̄ 凸


脅迫めいたWTの見方はこのような文章にも表れています。

5-6節にも注目してみましょう。


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5 お金や物に関する世の見方は,どのように生活に入り込んで来るでしょうか。自分が何を愛しているかは,考え方や行動に表われるものです。イエスは,「あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるのです」と述べました。(マタ 6:21)心がどこを向いているかを見極めるために,時々自己吟味をするのは良いことです。こう自問しましょう。「自分はお金のことをどれほどの時間,考えているだろうか。もっと良い仕事,もっと快適な暮らしについてあれこれ考えることが多くなっているだろうか。それとも,いつも霊的な事柄に目を向けるように,努力しているだろうか」。(マタ 6:22)イエスが示しておられるように,「地上に宝を蓄える」ことを主要な関心事とする人たちは,霊的に重大な危険にさらされます。―マタ 6:19,20,24。

6 わたしたちの不完全な肉は,五感を満足させることを行なわせようとします。ローマ 7:21‐25を読む。)生活の中に聖霊の力が働かなければ,「闇に属する業」に屈してしまうかもしれません。そうした業には,「浮かれ騒ぎや酔酒,不義の関係やみだらな行ない」が含まれます。(ロマ 13:12,13)「地上にある事柄」,つまり肉に訴える事柄との闘いに勝つためには,上にある事柄に思いを留めなければなりません。それには努力が必要です。ですから使徒パウロは,「自分の体を打ちたたき,奴隷として引いて行く」と書きました。(コリ一 9:27)命を目指す競走を続けるには,自分を甘やかしてはならないのは明らかです。では,昔の忠実な二人の人が「神を十分に喜ばせる」ためにどうしたかを考えてみましょう。―ヘブ 11:6。

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WTが言う「お金のことを考える」「良い仕事について考える」「快適な暮らしについて

考える」って、一体どんな基準なんでしょ?

元々、勤勉で真面目な日本人にこんな指示を与えて、人として当然考えても良い

ものさえ、抑え付けさせて(犠牲にさせて)、奉仕しろ、開拓しろ、って事なんですか?

仕事や暮らしについて考える、って当たり前の事じゃないの!?

それを地上に宝を蓄える愚かな人だと断罪し、霊的に重大な危険に晒されると

脅し、果ては「自分を甘やかしてはいけない」ですか…。

どこまでストイックになれというのでしょう!?

全然、真理はあなた方を(人を)自由にしてませんやん!雁字搦めに他ならない。

だから私もWTが提唱することが真理だと思わなくなりました。


面白い表現も出てますね。「五感を満足させること」は「闇に属する業」のようです。

五感って…

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚ですよね?

満足させて何が悪い!?ヽ(`Д´)ノ

人間に備えられた基本的な能力、それこそ神からのプレゼントに対する

不敬です。


三大欲求だけでなく、五感までも禁止する宗教、って何!?


アブラハムだって、相当の金持ちでしたよね!?

モーセだって殺人および死体遺棄して逃げましたよね!?

今、私がこんな例を取り上げるのもナンセンスでしょ?えぇ、ナンセンスです。

わかってて書きました。でもWTの教理というものは、結局組織に都合の良い

ものに上手に仕立て上げられているわけですね。だからアブラハムとモーセを

讃えるわけです。我々と同じ不完全なのに。我々が犯さないような罪を犯している

クセに。(笑)

もちろん移住することや民を導く、ということは簡単ではないでしょう。

それはわかりますよ。

じゃあお前はできるのか!?とか噛みつかれそうですが、えぇ、できません、と

答えます。w でも、現代における我々だって、各人はそれぞれの荷を負い、 

不完全さと闘い、ストレスと向き合っている、そんな中でも神を求め、努力している

誠実な人もいるんです。そんな事情など考慮もせず、彼らの模範に倣え!

お前らの生活スタイルはどーのこーの、とか言われたくありません。

結局、モーセやアブラハムと我々とを比較すること自体、ナンセンスなんです。

移住したからあなたも海外で奉仕できます!なんて、愚の骨頂です。

言えることは「彼らは神の業を優先した」ただそれだけだと思います。



あと、最後にもう一つ、失礼な書き方やな~と思った部分。違和感を感じました。

先に述べた「言葉」の威力に注意しろよ!という部分。16節です。


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16 行動: ペテロは良い行動の重要性を認めていました。こう書いています。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,……あなた方のりっぱな業を実際に見,その業のゆえに……神の栄光をたたえるようになるためです」。(ペテ一 2:12)わたしたちは家庭・職場・学校のどこにいても,遊んでいても,宣教に参加していても,りっぱな行動によってエホバに栄光をもたらすよう努力します。確かにわたしたちは不完全であり,間違いを犯します。(ロマ 3:23)しかし,「信仰の戦いをりっぱに戦い」続けるなら,不完全な肉との闘いに勝利を収めることができます。―テモ一 6:12。

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「遊んでいても」!?Σ(・ω・ノ)ノ!


はっ!?ってなりました。上層部が我々に対してどういう見方をしているかが、

よ~~~~くわかりました。

結局、宣教に参加してない時間というものは、組織から見たら全部「遊び」なんです!

本当にバカにしてますよね!?マイコンの方にこの点を振ると、それは、組織が

若い人に向けてわかりやすく書いてくれただの、あなたも休みの日に遊びに行く

ことがあるでしょ?そういうことじゃないの!?何そんなにひねくれて考えてるの!?

と言われましたが、いやいや…そうじゃないでしょ、この書き方の真意…。

働いてても、家事をしてても、介護してても、勉強してても、JWの事をしていない

時間は、ぜ~~~んぶ「遊び」なんですよ。彼らにとっては。

WTのそうした歪んだ先入観を理解すると、昨今の記事で繰り広げられる失礼

極まりない論理も理解できないことはないです。所詮我々をそのように見てるの

ですから。皆さんはそんな見方されてても悔しくないですか?虚しくないですか?

アタシャ悲しいよ。。(´д`lll)



ま、そんな感じで、今週の塔の目だった点は終わりです。

今年も最後の「今週の塔」になりました。ご愛読(?)ありがとうございました。

思いついたことをツラツラ書いているだけなので、話が前後してたり、いきなり

飛んでたり、起承転結がなかったり…と、読みにくくて申し訳ありませんでした。

ファミレスで愚痴を聞いていただく感じで見ていただけたら嬉しいです。

来年はもう少し、文字数を減らせるように努力します。(笑)