われは河の子 -8ページ目

われは河の子

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今日から老健施設に入居します。

 過去にも何度もショートステイで使っている場所ですが、今回はショートステイではなく入居という形になります。

 というのも、今回はニョウボが明日膝の手術をするために今日から整形外科に入院するのですが、それがドクターからだいたい1ヶ月と言われたいるのであって、手術の経過とその後のリハビリによって、彼女自身がいつ退院できるかわからないし、退院してもその後すぐ家で普通通りの生活ができるかどうかはわからないのです。(傷病名は、左膝半月板並びに内側副側靭帯断裂です)


 そのため私の滞在もいつまでになるか未定の状況ではあるのですが、私のように要介護2の認定を受けている場合、ショートステイは最大20日間と定められており、それを越える場合には、ショートではなく入居というくくりになります。


 いずれにしても、早く治って帰って来てほしいです。

 私の方は日曜日以外はリハビリもあるので、ぬくぬくとした建物の中で、寒波や豪雪にも関係なく冬をやり過ごそうと思います。

 とりあえずミステリや冒険小説など10冊ほどを持って行きます。


 明日の午後から手術のニョウボはまもなく出発ですし、私は午後1時半頃に迎えが来ます。

 今日は娘が休みで家にいるから助かります。

 こんな写真が美女ファイルに残っていました🤣


7年前の、風呂上がりにパックをする娘の姿ですが、当時この写真をブログにあげた所、多くのフォロワーさんからフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」か?と言われました。


 そんなに高尚なものではありません🤣

 まだ20歳前後だった娘はそんな絵のことなど知ってはいなかったと思われます🤪


 呉聞番(おききばん)会津藩・最後の隠密

 高橋義夫 1993年 講談社文庫 1996年


  大庭恭平は微禄の会津藩士大庭正吾の次男として生まれたが、3歳の時に父が死に、長男も夭折し、家は廃絶されたので、城下の武家長屋に住むことは許されなかったが、母と2人、常にお長屋の近くに住まい、いつかお家再興を夢見て文武両道の修行に勤めていた。

 そんな恭平は、時代が幕末の動乱期を迎えたことにより、隠密として召し抱えられることになった。

 さらに会津藩は、尊皇攘夷の浪士による暗殺事件が跋扈する京都の治安を守るため、新設された京都守護職の大命を引き受け、藩主松平容保以下家臣一同京都に赴くこととなる。

 都から見て江戸より遥かに遠く、言葉に独特の訛りさえある会津から大軍団が乗り込むのに当たって、恭平は先乗り役として先発、本隊が着任する前に、各方面への周旋や宿舎の手配などをするこれも藩内で新設された御聞番という役職に就くが、そのことは一部の上司・同僚以外の藩士の知る所ではなかった。

 国学の素養があった恭平は隠密(スパイ)として、京の国学者の下に出入りし、そこに集う尊皇攘夷を叫ぶ勤王の志士たちの間に混じり情報を収集するとともに、自らも国学の徒として、洛西等寺院に祀られている足利三代将軍の木造の首を斬って三条河原に晒す事件を首謀する。

 この事件がきっかけになり、守護職は勤王浪士の検挙、弾圧に踏み切ることになり、事件を首謀したとはいえ、結果的に浪士狩りに特別の功があったとして、本来なら目通り(殿様に直に会うこと)を許される立場ではないが、特別に君主松平容保から労いの言葉をかけられる。

 しかし恭平は犯人の1人として信州上田藩にお預かりと罪状が決まり、上田の地に幽閉される。

 

 恭平の6年にわたる幽閉の間に時代は動き、会津藩は鳥羽伏見の戦いに敗れ、藩主容保は将軍慶喜と共に江戸に落ちる。将軍共々臣下を見捨てて逃げたと言われても仕方ない状況に加えて、会津は官軍(天皇の軍)に敵対したとして朝敵の汚名を着ることとなったが、王政復古の明治維新が成ったことで恭平は許されて江戸に帰り、母に再会し、巴という名の妻を娶る。

 しかし藩主以下が国表の会津に帰藩することになり、恭平一家もこれに同行して会津に至るが、恭平は北上する官軍への備えとして北陸に転戦するが、庄内で降伏する。

 その後は生き残った他の会津藩士同様、最果て下北半島に3万石を賜わい斗南藩となるが、まったくの極寒不毛の地で、ここでの開拓は困難を極める。

 その後廃藩置県が起こり斗南藩自体が廃止され、北海道に渡り官渡に就くが、酒乱で奇矯の癖があり、上司を殴って罷免されたりして、最後は室蘭で野垂れ死同様の生涯を閉じる。


 大庭恭平は実在の人物で会津藩士である。 

 幕末史における京都守護職時代の会津藩の主要人物としては、藩主松平容保を筆頭に、家老西郷頼母、田中土佐、茅野権兵衛、佐川官兵衛、梶原平馬、神保修理・雪夫妻、秋月悌次郎、手代木直右衛門、山本覚馬・八重兄妹、中野竹子・陽子姉妹や、白虎隊の少年たち、さらには会津の藩籍こそ持ってはいないが、その配下にあって京都の治安維持と、鳥羽伏見の最前線で戦った新選組の面々と言った表舞台に登場した人物が有名だが、私はこの最後の隠密として暗躍した人物について何も知らなかった。

 しかも彼は札幌最古の学校である、創生小学校の前身に当たる開拓使仮学校の資生館の初代校長を務めていたというのだから驚きであった。

 激動の歴史の裏面にひっそりと生き、ひっそりと死んで行った、しかし波瀾万丈の男の人生がそこにあった。