黄色い部屋の謎 | われは河の子

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黄色い部屋の謎 ガストン・ルルー 

                   1907年 

   創元推理文庫 1965年


 1892年12月、フランスのエピネー・シュール・オルジュ町の古城グランディエに住む物理学者のスタンガースン教授の邸で、奇怪な事件が発生する。

 教授が実験室として使っていた離れで、実験室に隣接する自室で就寝していた教授の娘で助手であるマチルド嬢の部屋から

「人殺し!人殺し!助けて!」

 という死に物狂いの声が聞こえ、ピストルの音が鳴り響くと共にテーブルや家具がひっくり返る音や、床に倒れたりするような音が聞こえた。さらに

「人殺し……!助けて……!パパ!パパ!」という悲鳴が聞こえた。

 

 しかしドアは内側からしっかり鍵とカンヌキで戸締りがしてあった。

 この家の老僕のジャック爺さんと、門番のベルニエ夫妻、そして教授の4人がかりで力を合わせて押し破ると、部屋の中はすっかりめちゃめちゃになっており、マチルド嬢は、すっかり血だらけになって、のどにはひどい爪の跡があり、右のこめかみのあたりに穴が空いて、そこから流れ出る血が床に血溜まりを作っていた。

 しかし犯人の姿はその「黄色い部屋」と名づけられた部屋のどこにも無かった。

 

 人間の姿はどこにも見えないが、男の手らしい血みどろの手の痕が壁とドアに付いていたし、大きなハンカチが1枚と、使い古したベレー帽がひとつ、そして床の上にはまだ真新しい男の靴跡といった物証がいくつも残されていた。

 窓は鎧戸を閉め切ったままで、窓に嵌めた鉄格子にも異常は無かったし、その後の警察や予審判事の捜査でもそれ以上の発見は無かったし、犯人がいかにして黄色い部屋から逃げおおせたのかはわからなかった。

 パリ警視庁はロンドンに出張中の名探偵フレデリック・ラルサンを急遽呼び寄せて、これも捜査に当たらせた。

 ラルサンはスタンガースン教授の信任が厚いようだった。


 一方、この事件に首を突っ込んだのは、これまでにもいくつかの難解な事件を独自の解釈で解決に導いた、わずか18歳の新聞記者ジョゼフ・ルールタビーユであった。彼は友人で弁護士のサンクレールを伴いグランディエに赴く。

 しかし厳重に警戒されているグランディエの中に入ることはできない。そこでルールタビーユは、マチルドの婚約者で、ソルボンヌ大学教授のロベール・ダルザックに接触する。

 ルールタビーユが彼に

「司祭館の美しさはいささかも失われず、あの庭のみずみずしさもまた同じ」という謎の言葉を語りかけると、ダルザックは顔色を変え、あっさりと彼が城に入るのを許す。

 既に捜査を始めていたフレデリック・ラルサンは、このダルザックがなんらかの形で犯行に関わっていたことを示唆する。 ルールタビーユは、あくまでダルザックの無実を出張し、2人の意見は対立する。


 しかしさらなる驚きが城を襲う。鍵の手になった廊下で双方向から追われた犯人が、衆人監視の目前で突然消えてしまう。

 また、令嬢が襲われ、逃げる犯人を数人で追うが、これも庭の片隅に追い込んだところで忽然と消え失せてしまう。

 この不可解な密室と、犯人消失の謎を解くのは老練な名探偵か?新進気鋭の少年記者か?


 ヴァン・ダイン、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ディクソン・カーなど綺羅星の如きミステリ作家が生まれた本格ミステリ黄金期と言われる1930年代に遥かに先立つガチガチの古典である。

 なにせ「黄色い部屋」といえば密室を表すほど有名なこの作品は、ミステリ黎明期に書かれたポーの「モルグ街の殺人」や、ドイルの「まだらの紐」といった密室ミステリが、一定条件下では密室でなかったことから、完全に封鎖された密室に果敢に挑んだ野心作である。

 

 私は中学生の時にこれを読んで以来およそ50年ぶりに再読したわけであるが、私自身少年で、まだそんなに本格ミステリを読み込んでいない時期には、その硬質な文章がなかなか頭に入って来ず、それほどの印象も残さなかった。

 何よりその後50年の間に幾多のミステリを読み、その中でカーの「三つの棺」におけるフェル博士の「密室講義」や、江戸川乱歩のトリック分類などを読んでいる現在としては、もはやそのトリックは自明のものであった。


 しかしやはり黄金期に確立した、すべての手がかりを読者に提出しなければならないという命題はまだ守られてはおらず、先に挙げたルールタビーユが呟く「司祭館うんぬん」のセリフの意味も、解決編ではルールタビーユによって明かされるが、そこに至るまで、読者にその内容を伝えるヒントもないし、犯人とマチルダの過去に繋がる仕込みもない。

 頑なに被害者のマチルドと、容疑者とみなされるダルザックが、口を閉ざす因縁も、それが書かれたのがまだ20世紀初頭の1907年という時代背景を考えなければならない。

 横溝正史の「本陣殺陣事件」の動機が、現代の日本人の頭では到底理解できないのと相通じるものがあると思う。


 なにしろ古典中の古典であるので、中学の時と違い還暦を過ぎた頭で読んでも極めて文章が古く読みにくい。

 しかし数年前に同じルルーにより、この作品の2年後に書かれた「オペラ座の怪人」の方はこれほど読みにくくはなかった。翻訳の違いなのだろうか?


 しかしながら、最初にこのトリックを考案したという栄誉はいつまでも残ることは間違いはない。