テキサス・ブロンコ | われは河の子

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 昨日訃報をお伝えした、元プロレスラーのドリー・ファンク・Jr.は、第40代NWA世界ヘビー級王者として4年余における長期政権を敷き、これは「鉄人」ルー・テーズに次ぐ長さであった。




日本では「テキサスの若馬」のニックネームで知られ、ジャイアント馬場の参謀として、全日本プロレスの外人招聘窓口として活躍し、また同団体の若手レスラーのトレーナーとしても活躍、ジャンボ鶴田・天竜源一郎・大仁田厚などを育てた。

 父、ドリー・ファンク・シニアも著名なレスラーで、弟テリー・ファンクとの兄弟タッグ「ザ・ファンクス」としても日本で絶大な人気を集めた。


左ドリー・右テリーのザ・ファンクス。テリーは2023年に物故している。


 私が初めてプロレスを生観戦したのは、1975年3月9日に行われた、全日本プロレスの「75 エキサイトシリーズ第11戦」の函館大会で、メインイベントは、チャンピオンジャック・ブリスコ対ジャイアント馬場のNWA世界ヘビー級タイトルマッチだったが(1-1からの両者リングアウトの引き分け)、


 NWA世界王者時代のブリスコ


 そのシリーズにはファンクスも参加していたが、試合内容や相手などは覚えていない🤣


 ドリーの戴冠までは、本場アメリカでもプロレスというものは力自慢の大男たちが粗暴に闘うものというイメージが持たれていたが、ドリーは身長こそ190センチと大男だったが、若ハゲで、若いうちはひ弱そうなイメージを持たれていたが、サイエンティフィックなレスリングを展開して、プロレスの近代化に貢献した。馬場とは袂を分かった一方の雄であるアントニオ猪木が、生涯のベストバウトとして、全日本と新日本に分裂する前の「日本プロレス」時代のドリーとのNWA世界線を上げていたのが印象深い。

 得意技は、仰向けに寝た相手の片脚を取り、それを立ち位置の自分の相手とは反対側の脚にL字状にしてロックして、そのままそこを軸に回転を加え、テコの原理で締め上げる「スピニング・トゥ・ホールド」で、日本では「クリエイション」が演奏する同名の入場曲を使用していた。