オギノ式 | われは河の子

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昨日も書いたが、椎名誠の「哀愁の町に霧が降るのだ」の中のボロアパート克美荘でのエピソードや、若きシーナを取り巻く怪しい仲間たちとの交流を読んで感動しているうちに、やはりいつもの予備校寮でのあれこれを思い出した。

 今回は初出のエピソードです。


 私の右隣の部屋の住人は、京都府下福知山市から来たオギノ君だった。特別に親しかった訳ではなかったが、そこはやはり隣同士、どうしても接する機会も話をする機会も多かった。

 北海道函館からのぽっと出の私が驚いたのは、なんと言っても彼の(私にとっては時代遅れの)男尊女卑と旧弊さだった。


 ある時、予備校から歩いて行けた京都の繁華街河原町辺りで一緒に買い物をした私たちは当時はまだ地下に潜っていなかった三条京阪のバス停から寮のある八瀬・大原行きのバスを待っていました。わずかに雨もぱらついていました。

 やがてバスが到着し、並んでいた私たちが乗り込もうとするところに雨を避けながら若い女性が駆け込んで来たのです。

 思わず私は「どうぞ」と順番を譲りました。

 並んでいた人数はさほど多くはなく、どちらにせよ座れることは間違いなかったのです。

 ところがこの行為がオギノには気に食わなかったようで、寮に戻ると早速

「おい、なんであんな偽善的なことするんや⁉️」と私を問い糺しました。

 言われた私には何のことだかわかりませんでしたが、聞くと彼は常に男が先女は後と躾けられて来たそうなのです。

 「お父さんの次に僕が当主になったら8代目なんや!」とそれが旧家の1人息子としての自慢のように彼はいうのでした。

 聞くと、彼の家では座敷で食事をしていいのは祖父と、父親と彼だけで、祖母や母親や姉妹は板張りの次の間でしか食べることを許されないそうでした。なにそれ封建時代かよ⁉️私はそう思いました。

 さらには風呂に入る順番も厳しく決められていて、一番風呂は当主である父親が、次に隠居の祖父、そしてオギノ本人で、それから順次女性陣の番になりお母さんは終い湯を使い掃除をして出て来るということでした。

 彼の家がある福知山は明智光秀の領地だったところで、それほどの歴史を誇っていることはわかりますが、それにしても時代は1980年代に入ったところでした。私が思わず訝しげな顔をしていると、

「ほな、みんつちの家ではどんな順番なんや?」と

訊いて来るので、

「テレビを見ていない順かな?さもなくば、先に入りたい者が風呂を洗って沸かす。そうすると優先権がある」と答えると

「そんなんが許されるんか⁉️」と憤ったように言いました。

「あんなぁ、歴史を誇るお前のとこと違って、北海道は明治期になって内地からの移民による開拓団によって拓かれたんや。原生林を切り拓き、畑を作り、冬は現在より乏しい暖房で極寒に耐え、そんな生活をしていく上では男女同権意識が古くから根付いたんや。まぁ俺の故郷函館はそんな北海道でも一番古くから開け、かつ一番温暖な場所やけどな」

 そう説明する私の言葉を彼がどれほど理解したのかはわかりません。

 というわけで、はっきり言って馬が合わなかった仲間と言った方がいいでしょう。

 そんなオギノですが、20人近くの男たちが暮らしている中で誰1人国公立大学を目指すことのない二流予備校生たちの間にあって、唯一翌年同志社大学に合格したオギノはいわば出世頭だったとも言えるでしょう。(英語が苦手だった私は英語の配点が国語や世界史に比べて倍だった同志社は受験しませんでした。というより現役の時から立命館が第一志望だったのです)

 一浪したものの、そのまま合格した人の数が少なかったため、合格組は量を出る時に互いの住所をなんとなく交換しました。合格組は京都産業大に行ったカラス、仏教大に行った奥田、京都外大に行ったツカサくらいしか記憶にありません。

 あと、ウチ(立命)の2部(夜間部)に行った谷沢がいました。オギノともそうして住所を交換したのです。


 やがてそれぞれが大学生活が始まってしばらくしたある時、オギノから下旬に呼び出し電話がかかって来ました。何事ならん?と思って出てみると、懐かしいからこっちの方に🍶飲みに来ないか?ということで、同志社の地元の河原町今出川のパブで飲むことになりました。産大に行ったカラスも呼んだそうです。

 そこで約束の日に指定された場所に行ってみると、もうひとり知らない若い女性が同席していました。生意気にオギノの彼女だそうです。

「久しぶりやなぁ!こっちは僕の彼女の○○さんや、みんつち、お前の話はオモロいから彼女に聞かせてやって欲しいんや!」

 それが奴の言い分でした。要するに私とカラスはとんだ幇間(ほうかん・太鼓持ち 宴席で客を楽しませ酒興を盛り上げる芸人)役としてその場に呼ばれたのです。

 私とカラス(烏谷というのが本名)はしばらくそこで歓談した後お先に失礼するわと言って店を出ました。

 カラスは「ワシはオギノのああいうところが大嫌いなんじゃ!」と怒っていました。

 私もいい気分はしませんでしたが、カラスとも久しぶりに会うことができ、飲み代はオギノの奢りということだったので、それはそれでいいと思いました。オギノは彼女にカッコつけたかったのでしょう。

 それから40数年間オギノとは一切の連絡がありません。カラスは故郷松山市で郵政関係の仕事をしていると数年前に情報が入りました。


 右がカラス、左外大に行ったツカサ、中央同じ寮で二浪したカオル。オギノの写真は1枚もない🤣


 今日も懐かしき若い日の話題でした。