臓腑(はらわた)の流儀 カルス・ナックル その③ | われは河の子

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アメリカの警官たちの稽古を初めて見学した。 
ある程度の予想通り、基礎がなっていないと感じた。師範のウィリアム初段は東海大学に留学経験があり、そこで柔道を習って段位を取得して、帰国後警察官となったそうなので、彼自身にはそれなりの程度の基礎は備わっているようだが、それを何も知らない初心者たちに教えるのに苦労しているようだった。

 まず武道の大切な概念である「礼」がまったくなっていない。とりあえずポーズとして、対戦相手に頭は下げるが、それが闘う相手への敬意にはなっていない。当然姿勢も悪い。
 稽古終わりには全員で正座をして「黙想」の声がかかるが、そもそも床に坐る習慣がなく、正座に不向きなのは理解できなくもないが、やはり正しい精神は正しい姿勢からという考え方が伝わっていない。
 もっとも、以前の稿に書いたように、武徳会で俺が伝授されたものはスポーツ柔道とは異質の殺人術ではあったわけだが、やはり俺には中学の頃からつちかって来た、講道館流柔道の訓えが深く根づいていた。
 また、同様に基礎練習を嫌うのも彼らの特徴とも言えた。
 準備運動として必須な開脚についても、おそらく人種的に股関節の構造が違うのかも知らないが、できるだけ手を抜こうとしているのがありありとわかったし、寝技の防護として不可欠な畳に横向きに寝て身体を丸めて下になった脚で畳を蹴って前進する「エビ」や、仰向けになって尻を浮かし、手と足を使って移動する「クモ歩き」、腹ばいになって両肘を顔の前に立て、それを引きつけるようにして前進する「ヒジ進み」などの基礎トレーニングはまったく嫌そうだった。
 ともかく柔道とはカッコよく相手を投げ飛ばすというイメージばかりが強く、打ち込み練習もほどほどに、ひたすら乱取りをしたがるのだ。それも力任にすぎるのが全体として言えた。
 そこで俺はウィリアムに声をかけて乱取りを一旦中断させ、手本稽古を見せることにして、対戦相手を募った。

 ひときわ大きな声をあげて立ち上がった巨漢の黒人警官を指名して前に呼んで名前と体重を尋ねた。
"Cananga Officer 264lb“ 
「カナンガ巡査、264ポンド(約120kg)だ」
 カナンガは不敵に笑った。身の丈は190センチ近くあろう。マッキンタイアも大柄だが、この男はまさに巨漢、プロレスラー並みである。
 ちなみにこの時の俺は身長175センチ、80kgであった。
「ハジメ!」
 ウィリアム師範の声がかかった。

カナンガはいきなり右足から踏み込むと、背伸びするような格好で奥襟を狙いに来た。
 大きな身体をさらに大きく見せることによってイメージ的に威圧しようとするのと同時に,ぶっこ抜きにして投げつけようとしたのであろう。しかし脇が甘い。
 俺は右手の釣り手で彼の襟は狙わず、大きく前方に突き出されたカナンガ巡査の右袖を左手(引き手)で握って引き絞ると、すかさず彼のがら空きの腹の前で反転して、そこでようやく釣り手を彼の左腋の下から回して道着の背中辺りをつかみ、前に引き落とすと同時に腰を跳ね上げた。あとは相手が勝手に一回転して背中から畳に叩きつけられた。
 俺はカナンガがド派手な音を響かせて畳の上で天井を見上げているまで左手の引き手は離さなかった。
「イッポン!」
ウィリアムが宣言した。
 満座の猛者たちから思わず歓声が上がった。
「見事なヒップスロー(大腰)ですね、センセイ‼︎」
 試合開始を告げれてから10秒ほどしか経っていなかったに違いないが、俺より審判のウィリアムの方が息が荒れているようだった。

「ちょっと解説しよう」
 俺は腰を押さえながらようやく立ち上がろうしとたカナンガとウィリアムも座らせてからおもむろに口を切った。
「見てわかってもらえたかと思うが、柔道は決してパワー勝負ではない。
 もちろんあらゆる格闘技において、身体の大きい方が有利だとは言われるが、有利なだけであって、必ず勝てるわけではない。
 要はスピードとタイミングだ。それと物理学だな。カナンガのような巨漢でも前のめり気味なところで中に入って腰を入れてしまえば、あとは頭を下にして足を跳ね上げれば難なく一回転というわけだ。
 おそらくカナンガは自分のパワーに自信を持っていたのだろうし、俺はたったの180lb(ポンド)足らずしかない。どうにでもなると思ったのだろう。力はもちろん必要だが、それに頼ってはいかん。スピードとタイミング、それを日本語で「キレ」という。
 それからウィリアム師範は知っていると思うが柔道の真髄を"Soft and fair goes far"『柔よく剛を制す』という。
 この機会に知っておくがいい。」
 俺がそう言うと、集まった警官たちは深く頷いたようだった。

「キレというと、昨年のソウルオリンピックの柔道60kg級で銀メダルを取ったハワイ出身の日系アメリカ人のケビン・アサノの試合なんかその典型だな!君たちもあれには興奮したんじゃないか?」
「センセイ、ソウルではマイク・スウェインも銅メダルを取っています。確か71kg級だったと思いますが。
 彼は隣州であるニュージャージー州の出身なので俺たちも大騒ぎでした」
 そう言ったのはカナンガだった。
「おお、じゃあマイクは私より軽かったわけだが、カナンガ巡査、やっぱり彼も軽々と君を投げ飛ばしたに違いないよ」
「面目ねェ」
 カナンガは、その巨体を丸めて縮こまった。
周りの男たちは大笑いした。

「ところでセンセイ」
 一緒に笑っていたがっしりした体格の白人が手を上げて立ち上がった。
「刑事のカール・スワンです。昨日マッキンタイア刑事から聴いた話では、昨日空港でセンセイは見たこともない技でレフティを撃退したとか……?」
「あれは河津掛けと言って禁じ手だ。国際柔道ルールでも、講道館柔道でも使用禁止の技なので君たちが知らないのも無理はない。あまりにも危険だから禁止技にしているのであって、日本ではプロレスラーのジャイアント馬場の得意技だし、アメリカのプロレスでもサイドバスターっていうのかな?そう言われるとわかる諸君もいるかもしれない。


 写真はお借りしました

 しかし君たちに求められているのはオリンピアンになることではなく、素手による犯人制圧のはずだ。だから私もそのテクニックも伝えていくつもりだ。」
オオ〜ッという歓声が上がった。
「だからこそ、稽古では細心の注意を払うこと。
禁じ手は無闇に稽古では使わないこと。なによりしっかり準備運動をしておく習慣をつけることが大切だ」
 そうして俺はこの日最初の稽古を締め括った。