何かあったら…? | われは河の子

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前にも一度書いたことがありますが、大学四回生として就職活動をしていた頃、当時から場所好きだった私の第一志望は化粧品メーカーで、いくつか該当する会社を受けたところ、東京・銀座に本社を置く某メーカーの最終面接に残り、私を含む数名が関西から東京な呼ばれて幹部面接を受けたかった結果、なんとか内々定をもらうことができました。

 そこで安心しきった私はもうそこに行くつもりで、他の手持ちの選考残りの会社をすべて手離してしまったのです。


大学4回生の時、就職用履歴書に貼った証明写真。


 ところが、しばらくするとその会社から内々定取り消しの連絡がありました。

 今なら労働基準監督局にでも訴えるところですが、そんな知識もないまたうぶな学生時代のこと、まして私は自分が気に食わないことには諦めがいいので、逆にそんなケチがついた会社願い下げだと思い、関西より就職戦線の開始が遅かった北海道に戻り、そこで札幌に本社を置く酒類大卸しの問屋に採用されて仙台に赴任しましたが、就職2ヶ月目で、配達助手をしていた時にトラックが大型トレーラーの頭部分に追突され、重いムチウチ症(頸椎捻挫)を負ってしまい、結局仕事を続けることができなくなり、その後北大の研究生として学校に戻るという生活になってしまいました。

 結果函館に開設されることになった予備校の開設スタッフとして採用され、そこで同じく採用されたニョウボと結婚して、函館〜仙台〜札幌と転勤して、そこで観光産業に転職したわけですが、化粧品メーカーを志望していた時から父親に言われていたのが、『そんな(浮っついた職業を選んで)何かあったらどうするんだ?という不満でした。

 私は決して化粧品メーカーが浮っついた仕事とは思いませんでしたが、当時現役だった父は、自分が北大の職員で国家公務員(文部技官)だったため、どうも民間企業を下に見ていたような雰囲気があり、『何かあったら、』というのも、戦争などの有事の際にも倒産する恐れがなく、企業として優遇される電力などのエネルギー系企業や重工業を重視していたようです。(まぁ自分が戦中派なのでわからないでもないですが。)

 そして自身は水産高校卒なのに北海道大学水産学部の職員でありましたので、子どもである私や弟にもやはり北大かせめて国立大学に進学させたかったという思いがあったようですが、私が立命館に合格してからは幾分考えを改めたようで、弟が東京の私立大学に進んだ時にはどう思っていたのかは知りませんが、相当軟化していたものと思われます。

 私は結局中小企業はおろか、零細企業ばかりを渡り歩いておりましたが、

 父親が頼みにしていた北海道大学自体が、父の退職後の平成16(2004)年に、文科省が設立する国の行政機関から、各大学が独立した法人格を持つ国立大学法人へと変化して、身分も国家公務員から法人職員となったことを考えたり、戦争などの有事かはありませんでしたが、バブル景気とその後のリーマンショック、そして父の没後のことではありますが、東日本大震災やコロナ禍に見舞われた社会のことを考えると、本当に先のことはわからないということを実感します。

 私の弟は大学卒業後小樽の会社一筋で来ています。北海道を代表する観光客には知られる会社ですが、大企業というわけには行きません。

 父の願いは、そっくり弟の長女が叶えてくれましたし、私の娘と弟の次女は共に看護師になったので、その点硬い職業であることは間違い無いでしょう。