蝉鳴りの最終回の付記で、私が札幌の酒類卸業者に就職して、仙台支店に配属されてわずか2ヶ月後に追突事故に遭って深刻なムチウチ症を負い、仕事を続けられなくなった話を書きました。
今回はそれにまつわる因縁話を紹介したいと思います。
入社したのは札幌に本社を置く会社で、大卒同期は10数人いたでしょうか?
私は「君は内地の大学を出ているから内地の方がいいだろう」という勝手な理由で仙台に配属が決まりました。正直そんなことは思ったことはありませんが、北海道の田舎街に勤務するよりは東北六県の首都のような仙台という大都市の方がいいかとも思いました。
ご存知のように私の姓は松島です。
当然着任初日に、社員全員の前で「新人の松島です。よろしくお願いいたします。」と大声で挨拶しました。
その時なぜかざわめきが起こったのを聞き逃しませんでしたが、自分の声が大きすぎたか?と思いました。
会社は酒類をはじめとする食品問屋ですから、新人は入社して数年は倉庫勤務で、1000品目以上に及ぶ商品を覚えなくてはならず、その後30代の中堅職員になって、得意先の酒屋を持ち、営業職に就くことになっていました。38年前はまだ現在ほどコンビニはなく、町の酒屋さんが主流でしたし、日本酒は一升瓶が木箱に10本入りの時代、ビールは大瓶が30本プラケースに並んでいた時代でした。
毎朝ゴツいパネルトラックが何台も会社に着き、運転手さんが荷物を下ろします。
それを私たちが簡易フォークリフトを使ってコンパネごとトラックから下ろし、倉庫に運び入れ、製造日順に並べ替えす。(これがめんどくさいのです。昨日入荷した商品を全部出して、空いたスペースに今日来た分を入れて、さらにその前にまた昨日の文を並べてすぐに出荷できるようにします。
倉庫の内部は二階造りになっていて、リフトが2階まで商品を入れられるように金属製の手すりが何箇所が切れていました。
出入りの少ないスピリッツや香料などの商品は段ボールごと抱いて階段を駆け上がって運び入れました。
入荷が終わらないうちに当日分の出荷が始まります。
小売店からの注文伝票を見ながら、小口の注文に応えるために倉庫とトラックの間を重い酒瓶を担いて走り回っていました。
入社2ヶ月で腕はプロレスラーのように太くなりました。社員の皆さんからは「マツ、まっちゃん」と呼ばれていました。
それは誕生日前日の6月14日のことでした。
支店長が『松島くん、そろそろ倉庫も飽きただろう?』と声をかけて来ました。
確かに倉庫内に先輩は2人いましたが、おしゃべりもせずに黙々とほぼ一日中肉体仕事をしていると、「こんな仕事をしたかったんだっけなぁ?」と今考えるとずいぶん不遜なことを思っていました。
さらに2人いた先輩のうちの1人は高卒で、歳下なのに「おい、松島」と呼び捨てにされ、なんとなく憤懣が溜まっていたのも事実でした。
「今日は配送のSさんが腰を痛めて、来ているけど使い物にならないんだ。君、今日一日助手になって配送の手伝いして来てくれ」陰気くさい倉庫から出られるなら願ってもない話です。
その会社は北海道内では大手で、仙台にも進出していましたが、地元にしてみたらいわゆる外様なわけで、得意先は仙台市内というよりも塩釜、松島、名取といった周辺地域に広がっていました。
よく晴れた6月の1日、私は松島方面に配達に行き、個人経営の酒屋さんの倉庫に商品を卸すやり方を体験しました。当然ご主人やおかみさんと挨拶する必要があり、『松島に松島さんが来るなんてご縁だねぇ』などと言われていい気になっていました。
そしてすべての配達を終え、空車で仙台に戻る途中、赤信号で停車中に後続の大型トレーラーの頭の部分に追突されたのです。
カマキリのように細身の運転手のSさんは、その場で車を止めて車外に降りて、げえげえと吐き出しました。そのくらい強い衝撃でした。
私も慌てて車を降りてぶつかった部分を見てみましたが、硬い2トン車の荷台部分とトレーラーのバンパーがぶつかったので、両車には傷一つ付いていません。
これがこちらの酒瓶が粉々に割れて車体が潰れるくらいショックを吸収してくれれば良かったのでしょうが、硬い鋼鉄同士がカチンとぶつかっただけなので、衝撃は中に乗っていたわれわれにモロに来たのでしょう。
幸い私は40代のSさんより若かったのと、当時は体重が80キロ以上あり、首もそれなりに太かったので、吐くほどの影響は現れなかったものと思います。
しかも幸いなことに、事故った交差点の目の前に外科病院がありました
私たちはトラックをその場に置いたまま病院に駆け込み経緯を述べて診察を受けました。
レントゲンを撮った結果は頸椎捻挫(ムチウチ症)でしたが、実はムチウチはx線には映らないのです。しばらく安静にしているようにと言われて首に嵌るカラーを貰って終わりました。
診察前に会社に連絡しましたので、慌てて支店長と次長が飛んで来て、今日はこのまま帰っていいし、明日も出社しなくていい、安静にして様子を見なさいと言われました。
そしていきなり思いもよらなかった休みをもらったバカな私はその夜飲みに出かけたのです。
着任後すぐに仙台駅前に馴染みのスナックを作った私は浮かれ気分でそこに出かけ、翌日が誕生日ということでプレゼント(確か琺瑯引きの洗面器だったと思います)をもらって帰って来て、一夜眠ると、翌日には首が痛くてまったく左右を向けなくなっていました。
やはり動けなくなったsさんと2人で会社から紹介された鍼治療の名人というオババのところにも通いましたが、一向に回復せず、私はその後年末まで休職しますが、復職後も体調は戻らず休んでばかりなものですから、いっそ親元に帰そうということになり、函館支店に転勤となりましたが、そこでも依然回復は遅く、事故の事情をよく知らない函館の社員の間の雰囲気も気まずくなり、やがて退社することとなります。
逆に、それだけ仙台支店では、怪我をした私を腫れ物を触るような待遇で処していたのです。
もちろん、社会に出てたった2ヶ月の新人が勤務中に大怪我を負ったのですから会社としての責任も、仲間としての同情もあったのでしょうが、実はその厚遇の裏には驚くべき因縁があったのでした。
これは函館に転勤が決まる前に、同じアパートに住む前年入社の先輩であるSさん(運転手さんとは別人)から聞いた話ですが、実は前年度、仙台に配属されたのはSさんともう一人松◯さんという人がいて、私と同じくまっちゃんと呼ばれていたそうです。
このまっちゃんが、ある時倉庫の2階の手すりの切れ目から転落し、コンクリートの床に激突して脚の骨を複雑骨折したのだそうです。
当然親はやって来る、会社としても責任があるから手厚い治療を受けさせ、骨折は治ったものの、脚に一目でわかる障害が残ったそうなのです。そしてまっちゃんはそれを苦に海に身を投じて自殺してしまったそうです。
私が自己紹介をした時に場が騒めいたのも、怪我をした後会社が妙に優しかったのも、前年の轍を踏まないようにという気遣いがあったことでしょうし、この話は私には明かさないようにという内示が出ていたそうです。
それにしても、そんなことがあった上で、私を仙台に配属した人事部を含めた上層部の感覚がわかりません。
結果的にその会社は事業縮小で仙台からは撤退してしまいましたし、会社自体も他社と合併吸収されて今はありません。
私も脚に障害を負ってしまいましたが、これは単なる偶然ですし、私はこの障害で得たものに感謝しておりますし、毎日楽しく暮らしています。
先輩だったSさんは函館の酒屋の一人息子で、いずれ家を継ぐ前の修行としてその会社に入社した方で、高卒後現役で札幌の某大学に進まれたので、大学卒業では一年先輩でしたが同じ歳でした。
数年後、私が函館で予備校をオープンさせ、そこに責任者になった後、偶然街で遭いました。私の名刺を見て大変喜んでくれ、今度一緒に飲みに行こうと誘ってくれました。『マツの初恋の女性を見つけたんだ』と言います。なんでも飲みに行ったスナックで美人を見つけて話をしたら同い年ということで話が弾み、お互いの小学校の話から、「えー亀小なら松島って知らない?」ということになり「それなら私が彼の初恋の人だ❤️」ということになったらしいです。それで数日後、彼に誘われていってみたところ、なるほど、それは小学校の同級生だったハルエでした。
確かにハルエとは小学校の456年生、そして中学の1年生の時同じクラスで当時から美人でしたが、私は別に彼女が好きだったことはなく、本当の初恋の人であるみっちゃんを隠すためにそのように装っていたのかも知れません。姑息な子どもです😆