15の年のウイルス騒動で思い出したのが、私が15歳、中学3年生だった43年前のことです。
その年、故郷函館の小中学校を中心に、風疹(3日はしか)が大流行しました。
そんな中、それまで発症者がいなかった我が中学で、あろうことかこの私が発症No.1およびクラスターになってしまったのです。
あ、ちょっと釈明させてくれい!
当時私は我が中学の生徒会長でした。(その自慢話ではありません。)
そして年に2回、市内の中学をいくつかの地域的ブロックに分けて、各ブロック校の生徒会役員によるブロック会議というものがあり、北ブロックに配分された私たちも任期中だったので参加したのですが、おそらくその会議に潜伏期間中の他校の生徒が参加していたのでしょう。
風疹の潜伏期間は2〜3週間で、発症してしまうと、学校保健安全法により、発疹が消えるまでの出席停止が定められています。
今考えると、それこそ流行中に、教室を閉め切った中で、数十人が参加するブロック会議を開催するなんてとんでもない話ですが、当時は発症していない役員生徒の参加は食い止められなかったのでしょう。
そんなわけで、その会議からしばらくしてから私に発熱と全身の発疹が現れ、それから私は出席停止になったのですが、瞬く間に感染者は全校に拡がりました。
風疹には特効薬がありませんが、3日はしかの名の通り、数日で自然治癒するのが普通だということです。
そんな風疹騒ぎがようやく終結しようとした時に、3年生は修学旅行に出発しました。
もちろん、発症第一号だった私は既に完治していましたので嬉々としてそれに参加しましたが、3年生で、最後に罹患して旅行に参加できなかった女子生徒がいたそうです。クラスが違ったので誰だかわかりませんが、半世紀近く経った今でも何か申し訳ない気持ちが残ります。
申し訳ないといえば、全く別の話になりますし、過去に記事に書いたこともありますが、
生徒会任期もまもなく終わろうというその年の12月、2学期の期末試験前日の深夜、私たちの中学は、無人の保健室から出火して、三棟ある校舎のうち、木造だった一棟半が瞬時のうちに灰塵と化しました。
受験を控えた我々3年生は、まもなく焼け残りの教室で授業を再開しましたが、1年生の多くは、徒歩圏内で、空き教室があった別の中学に疎開しました。
そして疎開先の大川中学をはじめ、北ブロックの各中学の生徒会を通じて、学用品の寄贈寄付や、励ましメッセージの寄せ書きなどが多数寄せられました。
そして臨時のブロック会議も開催され、私は被災校の代表として謝辞を述べ、ペコペコ頭を下げました。私が悪いわけじゃないのに!
しかし、実際に出火した保健室の掃除当番は私のクラスで、前日は私の当番日ではありませんでしたが、仲のいい仲間たちが当番に当たっていたので、私も遊び半分でそれに付き合って最後まで残っていました。なんでも警察は当日当番だった生徒への事情聴取を考えていたそうですが、担任だった川○先生が、生徒に濡れ衣を着せかねないと、身体を張って反対されたことを私は大人になってから知りました。
(結局出火原因は窓ガラスを割って侵入し、保健室のベッドで寝た浮浪者のタバコの火の不始末ということに落着しました。)
そして任期も延長の末に終わり、私は市内の公立ではトップ校へ進学しました。(私立では函館ラ・サールが孤高の存在で、私はそこは落ちました。)
で、各中学の生徒会長たちもそれぞれ優秀な人材だったようで、高校に行ってみたら、ブロック会議で馴染みの顔ぶれが集合しておりました。
その結果、高校1年時の私のあだ名は「放火魔」になりました。
風評被害以外の何者でもありませんでした。
しかし、この火事のエピソードは、今年の8月に書いてこのブログにもアップした「臓腑(はらわた)の流儀」というハードボイルド短編小説にも取り入れましたので、元は取った感じがします。
長々と下らない思い出にお付き合いいただきありがとうございます。