土方沼2 | われは河の子

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さて、どかた沼は穴を掘った跡地に地下水が溜まったものでした。
その工事は昭和12年着工なので、土方歳三とは縁もゆかりもありません。

当時の国鉄が計画した「戸井線」の土盛りのために大量の土を必要としたのです。

「戸井線」は、函館本線「五稜郭」駅から分岐し、湯の川から下海岸(しもかいがん)を経て戸井(現在は合併し函館市戸井町)まで続く計画で前記の昭和12年に着工されました。

現在でも下海岸沿いに立派なコンクリート製の橋脚アーチが残り、鉄道遺産として一部ファンには知られていますが、

戦火が烈しくなった昭和18年に工事中断。そのまま終戦を迎え、ついに一度として汽車が走ることなく潰えた「幻の線区」なのです。

特に、五稜郭駅から東に向かう路盤が低く、そこに盛る土を掘った跡がどかた沼になったのです。

さて、未完成とはいえ建設から70年以上がたち、あちこちに倒壊崩落の危険性が指摘されるようになりました。
旧友ミミの会社は、その修復作業を請け負ったのです。

今はその会社で、結構重要なポジションにいるらしいミミが驚いたのは、

戸井線に関しての資料が何も残されていないことだそうです。
巷間伝えられる話では、津軽海峡の最狭部分の大間と対岸の戸井には要塞かあり、そこに兵を送るためということらしいのですが、それに関しても一切の記録がないのだそうです。

当時の工事はかなりな突貫工事だったそうです。
現場を直接見たミミは、鉄筋コンクリートならぬ「木筋コンクリート」「竹筋コンクリート」で造られている橋脚をいくつも確認したそうです。

さらに、鉄道工事に付き物の慰霊碑の類が一切存在しないことが不思議だといいます。

どうやら戸井線の工事には、いわゆる朝鮮人労働者が多数投入されたようだとミミは語りました。

ルベシベの常紋トンネル同様に人柱の言い伝えもあるらしいのです。

しかし戦時下とあって言語統制と軍の秘密主義は、さかのぼる常紋トンネル工事時期より厳しく、そこに一切の証拠は残されていないといいます。

酒を飲みながらミミは、なんらかの秘密が戸井から恵山にかけてあるはずだ!と力説して止みません。
戦中、物資が乏しさを増し、鉄道橋にさえ竹筋コンクリートを使用してでも戸井に何かを送らねばならなかった。いや、ミミは恵山、戸井から何かを運ぶ必要があったはずだと語るのです。しかもその目的は極秘中の極秘。どれだけの偽善者を出そうとも、それを隠蔽させても実行しなければならない急務だったのです。

それは当然、日本を戦争勝利の道へと導くくらいの価値がある資源か財産に違いない。ミミは暗に原爆の燃料であるウランだと考えているようで、要塞の話はダミーだと繰り返していました。そしてその挙げ句、

「それをお前小説に書け!」

へべれけに酔っ払った彼はそういいました。

いや、荷が重いんですけど・・・
いつかがんばります。