先日、塾舎がある建物の管理人さんに呼び止めらました。

「毎晩遅くまで大変ですね。
それはそうと、子どもさんが一生懸命勉強している姿を見ると、
何だか癒されるわぁ。」


伺えば、5 軒並ぶ店舗は歴代食べ物屋さんが多いそうです。
私の塾が来る以前は、斜め向かいの整骨院さんがいらっしゃいました。

ですから、整骨院さんが来られるまでは、
夜になると、お酒に酔った人が多く出入りし、
少なからず騒々しかったそうです。


そういう意味で、整骨院さんに続いて学習塾ですから、
騒々しさがなくなって、雰囲気が随分と良くなったと、
管理人さんもオーナーさんも喜んでいらっしゃるらしくて、
自分が思いもしないところで、
何かのお役に立てているんだなと、
ちょっぴり嬉しくなってしまいました。


人の役に立つとはどういうことかと、考えることがあります。
しかしながら、考えても答えは出てこないのです。


人に善かれと思ってしたことでも、
場合によっては迷惑になることもありますから。
なかなか微妙なところがありますものね。


そこで、なぜ善かれと思ったことなのに、
相手に迷惑とか重荷として取られてしまうのかを考えました。


その方が、「人の役に立つとは・・・」
なんていう哲学的思考よりも簡単そうですから。


それで何故なのかですが、
おそらく、相手に見返りを求めているからです。


「善かれと思う」というのは、
相手が「喜んでくれる」という
見返りを無意識の領域で求めている心の反映なのです。


だって、迷惑がられたり重荷に思われたら、
相手に腹が立ちますから。

その「腹が立つ」というのが見返りを求めているからこそです。

「相手がきっと喜んでくれるだろう」という見返り、
いわゆる期待があるから、予想に反した行動を相手にとられると、
なんだか裏切られたような気になる。


花や観葉植物やペットを見るにつけて、
彼らの無償の愛を感じずにはいられません。


人間もまたこのようになれたら、
どれほど心が軽くなるだろうかと思います。


心は軽い方が断然いいのですから。