『歴史とは何か』や『危機の20年』などで有名なE.H.カーが第2次大戦中(日本の真珠湾攻撃以前)に戦争後の秩序を構想する本をイギリスで出版し、それがなぜか2025年に日本で翻訳されたのが『平和の条件』です。
この本を読んで感じたのが、80年前の国際問題に関する思想的な課題とほとんど同じことが現在でも問題になっていることでした。
この本でカーは市場メカニズムに全てを委ねる19世紀的なレッセ・フェールを徹底的に批判するとともに古典派経済学の妥当性をも疑問視しています。
現在でもアメリカのマイケル・リンドやイギリスのデイビッド・グッドハートは1980年代から始まったサッチャー首相やレーガン大統領がはじめたネオリベ路線が格差を生み、それが英国のEUからの脱退やアメリカでのトランプ大統領の当選につながったとそれぞれ”The New Class War”や”Road to Somewhere”という本に書いていました。彼らのネオリベ批判はこの本でカーが批判しているレッセ・フェールとほぼ同じです。
また政治に関してもカーは第2次大戦当時の傾向としてほとんど全ての国で行政機関の力が強くなり、立法議会の力が弱まり、最後には民主主義が放棄されたことをこの本で指摘しています。
戦前において軍部に政治を乗っ取られた日本もそうだったし、また、現在の日本ににおいても財務省の力の方が遥かに国会議員よりも強いのだ。
そして次の文章を読み思わず苦笑してしまった。
「目的意識に裏付けられた道徳的目的が緊急かつ広範に必要になっている。そのことは近年の最も謎深い現象、すなわち人々が制約のないより大きな自由を求めるのではなく、より権威主義的な指導者を求めている現象を説明する。独裁の台頭がこの点において、他の点とともに世界的な危機の兆候となっている。
ソヴィエト・ロシアの魅力に英国世論、特に若者の心が惹かれていが、これはドイツの青年の心がヒトラーに魅了され、アメリカの世論がローズベルト大統領に魅惑されていることと同様である。」
アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平主席、インドのモディ大統領やトルコのエルドアン大統領といった権威主義的な権力者が目立っているのも80年前と一緒なのだ。
このようにカーが『歴史とは何か』で書いていた「歴史」とは現在と過去の対話であることを実践してみたら、第2次大戦中と同じような課題が現在においても問題になっていることがわかったのですが、その課題を解決するためには80年前と正反対の手段を取らなければならないのではないか。
わかりにくいのでもう少し説明してみます。
この本が書かれたのは昭和16年6月22日に起こった独ソ戦の直後で、まだアメリカが第2次大戦に参戦していない時でした。それでもその時点で第2次大戦終了後のアメリカの進路にカーは不安を抱いています。一つは「アメリカ人たちが果たして西半球の外側で政治的軍事的な義務を果たすのだろうか」という問題と「アメリカ人達は果たしてアメリカを世界の通商と金融の中心とするのに十分な程にアメリカ市場を対外貿易に自由に開放するのであろうか」という点でした。
カーの懸念は杞憂に終わりました。第2次大戦後にアメリカは孤立主義を捨て、敗戦国の日本やドイツに軍を駐留させNATOや日米同盟を構築し世界の問題に積極的に介入していきました。
経済においても戦前の保護主義は過去のものとなり、日本や韓国、台湾またヨーロッパの製品を快く受け入れ東アジアやヨーロッパ諸国が繁栄に向かう手助けをしました。
ここで終わっていれば問題にはならなかったのですが、カーの懸念と全く逆の問題が起こるようになってきたのです。それは米ソ冷戦が平和裡に終結した後でアメリカは一極覇権主義に傾きカーが生きていれば絶対に賛成しなかっただろうNATO拡大で不必要にロシアを刺激してしまうのです。
また経済においても共産主義である中国の工業製品をアメリカ国民の雇用を犠牲にしてまで輸入してしまい、アメリカの労働者を怒らせてしまったのです。
カーの懸念したアメリカの孤立主義や保護主義が世界の危機を招くのではなく、現在の危機はアメリカの過剰な市場解放と限度のない介入主義が招いた問題なのです。
このように考えるとアメリカでトランプ大統領の登場にはかなりの合理性がありますが、カーが「多分必要とされるのは、自由を過度に強調する19世紀の片面性を修正することであり、それは権利を過度に強調する19世紀の片面性を修正する必要に対応している」と主張する感性をあの大統領が持っているかと問われると疑問に思わざるを得ません。
カーが80年前に書いた本は現代の問題を考える上でも大変に参考になると思います。