若き近衛文麿が書いたこの論文は雑誌『日本及び日本人』に1918年12月15日号に掲載されたもので、パリで第一次世界大戦の講和会議が翌年の1月18日から始まるため、会議が開かれる前に書かれたことになります。
この論文の大枠で近衛は当時アメリカのウイルソン大統領らが主張していた第一次大戦は「民主主義と専制主義の争い」という考え方には否定的でした。
さらに英米の主張するやり方で国際政治を進めていけば、またしても似たような戦争が発生してしまうと後の第二次世界大戦までをも正確に予想していたのです。
私は日本人が書いたもので、これだけの先見力を持っているものを他に読んだことがないので以前から興味に思っていました。そこで今回はこの論文の内容を簡単に紹介したいと思います。
近衛は第一次世界大戦が英米の民主主義とドイツの軍国主義の戦いという考えには否定的でしたが、民主主義などの「進歩」的な価値観に対しては決して敵対的でなかったのは論文の冒頭に書かれていることからも明白です。
「戦後の世界に民主主義人道主義の思想がますます旺盛になるべきはもはや否定すべからざる事実というべく、我が国また世界の中に国する以上この思想の影響を免るる能わざるは当然の事理に属す。」
たいていの現実主義者と呼ばれる人は進歩的な価値観を否定して墓穴を掘るのですが、近衛はそうではありませんでした。ちゃんと上記したように書いて後に日本で行われる男子普通選挙や政党政治が開花するようになった大正デモクラシーのこともちゃんと担保していたのです。
彼はこのように民主主義が世界に広まっていくということを認識しながらも、もう一方でそれよりももっと重大な問題が存在することを指摘し、それが是正されなければまた同じことが繰り返されるだろうというのです。
それは英仏のような先進国が膨大な植民地を抱え、ドイツや日本のような後発国には膨張発展する余地がほとんど無いという問題でした。さらに近衛が鋭かったのは、この植民地の問題は単に土地の問題ではなく、英国国内で自国の植民地から他国の製品を排除しようとする保護主義の議論があることを指摘して、それが経済帝国主義に進展していくことを危惧したのでした。
1929年にアメリカで世界恐慌が始まると、まず最初にアメリカでホーリー・スムート法によって高関税の政策が用いられるとイギリスもオタワ関税会議で近衛が危惧した通り自分の植民地だけで貿易をしようとする政策が取られるのでした。
当時日本の繊維製品は競争力が高く、インド市場でも日本の製品は人気があったのですが、この関税によって日本の製品はイギリスの植民地から排除されることになります。
「領土狭くして原料品に乏しく、また人口も多からずして製造工業品市場として貧弱なる我が国は、英国がその植民地を閉鎖するの暁において、如何にして国家の安全なる生存をまっとうするを得ん。すなわちかかる場合には我が国もまた自己生存の必要上戦前のドイツのごとくに現状打破の挙に出でざるを得ざるに至らん」
近衛はこのように書いてヴェルサイユ講和会議が始まる以前から1931年の満州事変みたいになることを予想していたのです。
では、このような状態にならないようにするためにはどうすれば良いのか。一つには先程述べた経済帝国主義を排除すること。
「経済帝国主義を廃して各国をしてその植民地を解放せしめ、製造工業品の市場としても、天然資源の供給地としても、これを各国平等の使用に供し、自国のみに独占するが如きことなからしむるを要す。」
そしてもう一つは「黄白人の差別的待遇の撤廃なり」と書いており、近衛は第2次世界大戦後に訪れる人種差別の廃止と植民地の否定、および自由貿易が世界の安定のためには必須だと書いているのです。
日本は実際にヴェルサイユの講和条約で人種主義の撤廃は訴えましたが、近衛が主張したような植民地の廃止や自由貿易を推進することはあまりしませんでした。
代わりに中国におけるドイツの権益だった山東半島を継承することを訴えたのですが、はっきり言って近衛が書いたこの論文の趣旨を日本案として提出した方がはるかにましだったでしょう。彼は実際にヴェルサイユまで行っているので、なおさらでした。
いずれにしろ日本は近衛のあまりに天才的な予言を活かせなかったことは本当にもったいなかったと私は思うのです。
(この論文は中央公論新社から『最後の御前会議/戦後欧米見聞録』の題名で出ている文庫本の中に収録されています。)