今回はビスマルク型憲法がなぜ危機の時にうまく機能しないかを考察してみたいと思います。
イギリスの歴史家ドミニク・リーベン教授は第一次世界大戦に至る過程をロシア側から考察した名著『炎に向かって』で次のように指摘しています。
「ビスマルク憲法の根本的な欠陥はあまりにも巨大な権力を君主に与えてしまうことである。ビスマルクが政権にいる時にはドイツではうまく機能した。また、日本でも明治時代に勝利を得た元老が権力を行使している時にはうまくいったのである。」
ところが、時代が経つにつれて絶大な権力を持っていた君主の権威や能力が万能でなくなる場合において、「政治の中心が真空になることは避けられなかった。外交、軍事、そして国内の政策の調整に失敗したことが1914年のドイツと1941年の日本を大災害に導いたのである。」
つまりビスマルク型憲法は時代が進むにつれて、各部局がばらばらに動いてしまい、国家意思を持つ統制された外交など不可能になってくるのです。特に政治の中心であるべきの宰相や首相に軍の統制権がなければ平和か戦争かという段階で危機を拡大してしまうのです。
例を挙げて説明してみます。
第一次世界大戦に至る道のりで、イギリスとドイツの間において何らかの合意ができていれば、あのような大戦争が起こる確率は随分低くなっていたでしょう。
この間にイギリスとドイツの融和を妨げていたものはドイツ海軍ティルピッツ提督の海軍拡張計画でした。
ときのドイツ宰相ベートマン・ホルヴェークはティルピッツの軍拡に大反対でした。ところが、君主であるヴィルヘルム2世が海軍の軍拡に賛成だったために、海軍に対する指揮権が存在しないベートマンは直接的な行動が取れず、次のような行動に出るのです。
「ベートマンは海軍省を味方につけトリピッツの帝国海軍事務所に対抗しようとした。(海軍省は戦艦を増やすことよりも兵隊の教育や訓練に費用をかけることを主張した。)さらにベートマンは海軍の軍拡に予算を取られてことに不満を持っている陸軍に対して装備を一新することや人員の拡大を要求することを推奨したのである。」
(クリストファー・クラーク『夢遊病者たち』英語版から)
ここらへんのドイツの出来事は、日中戦争から太平洋戦争に至る日本の歴史を思い起こさせてくれます。
結局、ベートマンのこのような行動にもかかわらずイギリスとドイツは何らかの合意は結ぶには至らなかったのです。