前回ではイランについて選挙で選ばれた大統領に軍隊の指揮権がないことが問題であると私は書き、またそのような国家体制を持っていたのはイランだけではなく、ビスマルクが指導するドイツでもそうだったと記しました。

 

そこで今回はビスマルクが作った体制がどのようなものだったかをみていきます。現在、雑誌『クライテリオン』で伊藤貫さんがビスマルクについて書かれており、ちょうど今月号にビスマルクの作ったドイツ憲法に言及されていたので、そこから引用してみます。

 

「1867年にビスマルクが起草した北ドイツ連邦憲法は、君主主義と民主主義の奇妙な混合であった。帝国議会は全国民(男子)が平等な投票権を持つ普通選挙によって選ばれたが、立法行為には、25の北ドイツ諸連邦によって構成される連邦参議院の同意が必要であった。外交軍事に関する指導権はプロイセン国王が握り、北ドイツ連邦首相もプロイセン国王が任命した。」

 

ここで北ドイツ連邦となっているのは、この時点ではまだバイエルンなどの南部の王国とは統一できず、後にフランスと戦争する過程で、南部とは話し合いでドイツ統一を達成するのです。

 

ここで注目すべきことは、ドイツの外交軍事に関する指導権は国会で承認された行政全般を請け負う宰相には無く、国王自身がそれを維持しているということです。

 

伊藤さんはドイツの憲法を正確に「君主主義と民主主義の奇妙な混合」と書いていますが、イランの体制にもその表現がふさわしいと私は思います。

 

さらに伊藤さんはこの北ドイツ連邦憲法が日本の明治憲法に大きな影響を与えたと書かれているので、日本の明治憲法がどのようなものだったかも書いておきます。

 

アメリカのフーバー大統領の回顧録から引用します。

 

「日本は天皇を元首とする立憲君主国である。また天皇は日本の宗教の頂点でもある。政府はほとんどの場合国会において承認される。首相と閣僚は名目上天皇から任命される。(通常元老から指名を受ける。)そして首相と閣僚達は帝国議会の信認を受け、責任を負うことになる。しかし、大臣の職務にはこれまでの憲政では見られない特徴がある。それは陸軍と海軍がそれぞれの大臣を任命することである。」

 

フーバー大統領が言うように戦前の日本の天皇は神道の頂点でした、だからといって戦前の日本が神権国家と捉えれば間違うように、現在のイランを佐藤優氏のよう神権国家ととらえることも間違っています。

 

ここまで書いてきたように第一次大戦以前のドイツ、第2次大戦以前の日本、現在のイランでは国会から承認を受けた宰相(ドイツ)、首相(日本)、大統領(イラン)に軍の指揮権が無いという重大な欠陥が存在し、それが危機の時に露呈してしまうのです。

 

次回は、なぜこの体制が危機の時にうまく対処できないか実例を挙げて考えてみたいと思います。