歴史家の渡辺惣樹さんが最新刊『激動の日本近現代史』という本の中で興味深いことを書かれています。
「人間が素直に育つには母親の愛情が欠かせないのではないか。言い方はちょっと微妙なのですが、その人間にとって人を見る目、あるいは物事の良し悪しを判断する基準を作ってくれるのは、やはり母親の愛情ではないかと」
歴史家が母親の愛情を語るのは少し変と思われるかもしれないですが、私も同じことを考えたことがあるので、この問題について少し書いてみたいと思います。
アメリカにジョージ・ケナンというソビエト『封じ込め』という戦略を作った優れたリアリストがいました。
一方日本においても異論はあると思われますが、近衛文麿というリアリストがいました。
渡辺さんはこの本の中で「日本の歴史書を見るとドイツ一国に戦争責任を押し付けたベルサイユ体制の不条理さに対しての同情心が全くない」と語っていますが、近衛文麿が第一次大戦終了直後に書いた「英米本位の平和主義を排す」においてはその批判はあたりません。
私は近衛が若い時代に書いた「英米本位の平和主義を排す」は日本を代表するリアリズムの文書だと思っています。
ところで、近衛文麿とジョージ・ケナンには稀有な共通点がありました。それが両者とも生まれた早々に母親をなくしているのです。
母親からの愛情を受けられなかったケナンと近衛には似たような傾向がありました。彼らは共に少年時代から優秀だったのですが、全く「自己肯定感」が持てなかったのです。
この「自己肯定感」を持てないということが彼らの思考にはいつもつきまとい、どのような「理想」を語る時もいつも「現実」とのバランスを取ろうとする「リアリズム」的思考が発達したように思います。
ジョージ・ケナンの父親はミルウォーキーの弁護士で、アメリカのエスタブリッシュメントに属することのない人物でした。
ところがケナンは庶民的なものに対して一切の憧れを抱くことはなく終生貴族的なものに憧れ続けました。
一方近衛は、自身が天皇に最も近い貴族であるのにもかかわらず、庶民的なものに憧れ続けるのです。彼が大好きだった小説にトルストイの『アンナ・カレニーナ』がありますが、
この本は貴族である主人公が全てを捨てて駆け落ちをするという話なのです。
母親の不在がこんなところにも影響を及ぼしているのです。
「人間が素直に育つには母親の愛情が欠かせない」という渡辺さんの話は多分正しいのでしょうが、ケナンや近衛はそれが与えられなかったために徹底した「リアリズム」を体現できたのかもしれません。