冷泉さんが日本のリベラル派と保守派の両方にアメリカに対する「ねじれ」が存在するという観察に私は同意します。

一方、この「ねじれ」を解消していかなければ日米同盟を維持することが難しくなるという結論には同意できません。私は逆に賞味期限の切れた「日米同盟」を維持していることで「ねじれ」が出てきたのではないかと考えています。

なぜこのような違いが出てきたのかを考えてみますと、そこには「同盟」関係とはどのようなものかという問題に結び付いていくと思われます。

冷泉さんは日米関係について「理念的な相互理解、理念的なすり合わせ、理念的な共闘関係という面が弱すぎるのだ」と書かれていますが、果たして同盟関係にそのような「理念」は必要なのでしょうか。

ヘンリー・キッシンジャーは『外交』という本の中で、同盟関係を集団安全保障と比較した文章の中で、「同盟関係を維持するには共通の脅威や仮想敵の存在が必要である」と書いています。

このキッシンジャーの言葉が正しかったことは、太平洋戦争からわずか5年しか経っていない時点で日米安保条約が結ばれたことです。もちろん仮想敵はソ連でした。

太平洋戦争であれだけ激しく戦った日米が日本の敗戦後から5年しか経っていないのに同盟を組んだのは共通の理念というよりも共通の脅威を背景にしていたと考える方が自然です。

ところが1990年前後にソ連は崩壊し、同盟の根本である日米共通の脅威と考えていたものがなくなってしまったのです。

ここで日米の同盟関係は存続の意義を失ったのですが、日米両国ともそれを廃棄することをせずに存続させることを選びます。

役割が終わった同盟関係を維持するために持ち出された言葉が自由や民主主義という「共通の理念」という言葉でした。

ジョセフ・ナイという日米安保の再定義に貢献した学者がいますが、冷戦後の日米安保の仮想敵は中国では無いといいます。

ではどこを仮想敵と考えているかといえば、相手は北朝鮮と書いていました。

しかし、日米の共通の敵が北朝鮮と言われても全くリアリティーがわいてきません。北朝鮮の侵略から日本を守るために日本は膨大な米軍基地を受け入れているのでしょうか。

北朝鮮を仮想敵と考える新たな日米安保を日本の国民にうったえるために多用される言葉が「日米共通の理念」という後付けの解釈だったと私は思います。

だから冷泉さんが現在の日米関係には「理念的な相互理解」が足りていないと嘆かれるのはごもっともで、それは役割を終えた日米の同盟を無理に維持しようとしていることからくるものなのです。