ザカリアがイスラエルもアメリカと同じようにOECDのテストでは決して上位に属する国ではないと書いてあるのを読んで気がついたことがあります。

それはアメリカの経済学者ポール・クルーグマンがイスラエルの選挙の前に『ニューヨーク・タイムズ』に書いたコラムでした。

クルーグマン教授はネタニヤフ首相がアメリカ議会でイランの脅威を強調したのは、国内の経済的な苦境をごまかすためだと書いていました。

具体的にいえば、現在のイスラエルはアメリカをも上回る「格差社会」になっているのです。

おそらく、スウェーデンの場合もほっとけばアメリカやイスラエルのような格差社会になったかもしれませんが、北欧諸国の場合は高福祉高負担(消費税25%、所得税の最高税率が60%近く)なので格差の解消がなされていると思われます。

つまりザカリアがいうアメリカやイスラエルのようなテストの平均点があまり良くない国はスウェーデンのような社会政策が用いられない場合は甚だしい格差社会を招いてしまうのではないかということです。

私がザカリアの議論に不満なのは、彼は「初等教育」と「高等教育」をごっちゃにして議論していることです。

初等教育では少なくとも「読み、書き、そろばん」がしっかりとできるようにある程度の「丸覚え」勉強は必要でしょう。

読んだり、書いたりする能力が不十分なままでは、このグローバリゼーションが進んだ世の中で一般庶民が並の生活を維持するのは不可能でしょう。

一方、エリート教育の場合は、丸暗記型の教育はあまり意味がなく、ザカリアの主張するように「人文」系の学問を通じて想像力や批判的考察(critical thinking)の能力を獲得する必要があります。

確かに日本はアメリカに比べたら権威主義的な社会であることは事実でしょうが、日本のエリート教育が全てにおいて「丸暗記」型であるとは言い切れません。そうでなければノーベル賞もとれないでしょう。

先日作家の浅田次郎氏が『サンデー・プロジェクト』という番組で吉田松陰が松下村塾でどのような授業が行われていたかを喋っていました。

松陰の授業はほとんどが生徒たちと「議論する」というものだったそうです。

彼の生徒たちはその「議論」を通じてザカリアのいうcritical thinking ができる能力を獲得できたのではないかと私は推測しています。

松陰の弟子である高杉晋作は身分の高い武士階級でしたが、彼は身分にとらわれない奇兵隊という組織を生み出しています。

素晴らしくinnovativeな発想でした。

同じように伊藤博文もイギリス公使館を焼き討ちにした後にイギリスに留学したり、議会の状況に影響されないような憲法を作ったくせに政党の党首になったりしているのです。

今回ザカリアの議論を読んで思ったのは、初等教育においては「読み、書き、算盤」ができるような寺小屋のような教育は絶対必要でありますが、エリート教育においては松下村塾のような「議論」を通じて見識を高める場所は不可欠です。

この2つがそろうことで、格差の少ない革新的な社会が生まれるのではないでしょうか。