『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』という大変面白い本の後がきで訳者である渡辺惣樹さんが嘆いておられます。

「戦争に反対する8割のアメリカ国民の声こそが日米衝突を回避する最大の武器であった。現代の政治状況からみても容易に想像できることだが、8割という数字は生活感覚からいえば、まず国民全員が反対していたともいえるのである。私たち、日本人はその武器を活かせなかったこそを反省すべきである」

当時のアメリカ国民は第一次世界大戦の結果に幻滅し、いわゆる孤立主義的な感情が全体に行き渡り、第二次世界大戦が始まっても渡辺さんが指摘するように8割の人達が戦争に介入することに反対していたのです。

それなのになぜ山本五十六はあえて直接強大なアメリカを敵とする真珠湾攻撃を発動したのでしょうか。

山本五十六は決してアメリカを侮っていたわけではありません。

真珠湾攻撃から3ヶ月前の9月18日に山本の母校である長岡中学校の同窓会が開かれて、その席で彼は、「米国人が贅沢だとか弱いとか思うてる人が沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である」と語り、「日本は絶対米国と戦うべきではない」と結びました。(鳥居民『山本五十六の乾坤一擲』153ページ)

このような正確なアメリカ認識を持っていてなぜ真珠湾攻撃なのでしょうか。さっぱりわからなくなります。

実は山本のようなアメリカ認識が逆に彼の心のトラウマになっていくのです。

鳥居民さんの前掲書に阿川弘之氏の『山本五十六』から引用されている部分があります。

「例えば赤城の飛行隊長の淵田美津雄少佐、のちのハワイ攻撃隊の総指揮官は、山本五十六が長官に就任して『山本五十六というのは妙にイギリス、アメリカが好きで弱いらしいで、腰抜けと違うか』と公言するような雰囲気でした」

山本は陰で、あいつはチキンではないのかと思われていたのです。

どうも山本は陰で皆から臆病者といわれることを軍人として恐れていたようです。
鳥居民さんは次のように分析されています。

「もしも戦いになってしまったら、そのぎりぎり最後まで戦争を避けようとした臆病者、大きな恥辱を受け入れさせようとした卑怯者が、航空部隊、潜水艦部隊の指揮官達に向かって、あろうことか勝利の意思を持てと説かねばならなくなるのです。だからこそ、あらかたの海軍幹部の反対を退け、僅か一時間で西太平洋を制圧してみせるという一か八の大冒険をかれは行うことにしたのです」

つまり山本五十六は決してチキンではないことを証明するために真珠湾攻撃を立案したのです。そこにはアメリカ人の8割が戦争に反対していることは入り込む余地がないのでした。

このことは決して山本五十六個人の問題ではありません。日露戦争後の帝国国防方針で、陸軍は仮想敵をソ連と定め、海軍はアメリカと定めました。

このような軍部の2頭体制は平時の場合は予算の分捕り合戦ぐらいで済みますが、いざアメリカとの戦争が近づいてくると大変危険なものになります。

それは、海軍が正直に「アメリカと戦ったら負ける」と告げることができなくなるからです。

近衛文麿が総理の時に東条英機に対して中国からの撤兵を求めますが、彼は全く受け入れません。日米交渉の中心問題が中国からの撤兵でしたので彼の内閣はそこで行き詰まります。もし仮に東条に中国からの撤兵を承諾させる可能性があったとすれば、海軍が「日米交渉が失敗すればアメリカとの戦争になり、帝国海軍に勝ち目は無い」と告げることでした。

しかし、そんなことを告白すれば、陸軍は中国との負け戦を自分の責任を放棄して「海軍がアメリカと戦えないから」中国から撤兵すると宣伝しまくるでしょうし、いずれ海軍がアメリカを仮想敵としていることに目をつけて予算の縮小を求めることでしょう。

そうなることは海軍としては是が非でも避けなければならず、アメリカとの戦いは怖くはないと去勢を貼り続けなくてはならなかったのです。

『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』のなかで、渡辺さんは日本の陸軍はイギリスやオランダだけを攻撃してアメリカとの戦争を避ける作戦も追及されているにもかかわらず、海軍の作戦にはそのようなものがないと指摘されています。

これもいかに帝国海軍が対米戦で弱気なところを見せたくないかの証左でしょう。

山本五十六も帝国海軍も自分達が決して臆病者、チキンでは無いことを証明したのが真珠湾攻撃だったのです。