『中国の終わりの始まり』という本の中で石平さんは天安門事件が起きた時の様子を次のように書いています。

「天安門広場で民主化運動が巻き起こった時点で、各地方はどう対処すべきか、みんな迷っていました。というのは、中央には2つの声があって、趙紫陽は民主化運動を認めていましたが、保守派は反対していました。」

一方、昭和11年2月26日に日本でクーデターが起きた様子を鳥居民さんは、『日米開戦の謎』で次のように描写しています。

「旭川から熊本までの各地の師団長のあいだに、ためらいと当惑があった。陸軍大臣、陸軍次官、軍務局長が反乱部隊に好意的であることを知って、『蜂起部隊』の『尊皇討奸』が承認されることになるかもしれないと思い、玉虫色の意見具申の電報を陸軍大臣に送り、情勢待ちだった。」

天安門事件と2・26事件が起きた時、どちらに転ぶかわからない情勢が急に発生したために、当時の中国の政治家や日本の陸軍将官達は皆金縛りの状態にあったのです。

このような時にリスクを顧みず、果敢な決断をしたものが後に出世していきます。

中国の場合、それは江沢民でした。

『中国の終わりの始まり』で共著者の黄文雄さんは「曽慶紅の進言で反民主化に傾いた江沢民は、胡耀邦に同情的な論調を掲げる上海の週刊誌『世界経済導報』を廃刊に追い込みます」と語っています。

2.26事件でも江沢民と似たような行動を満州の地でとった日本の司令官がいました。

「かれは関東軍の幕僚たちが右顧左眄していた時、満州全土の過激派の将校と民間人を拘束し、クーデターの首謀者と関係あると認めたもの達を日本に送還してしまった」と鳥居さんは書いておられます。

もちろん、「かれ」とは後に日米開戦の決断を行った東条英機、その人です。

江沢民も東条英機も危機の時に、些細なことながら果敢な決断を行い、尚且つ彼らの予想通りに情勢が展開したために最後は国家の指導者になるまでに出世を果たすのです。

しかし、ここに問題があります。

江沢民本人にはそれ程の能力はなく、やったことと言えば中国の「反日」を一層高めたことぐらいで、それが現在の尖閣問題にも多大な影響を及ぼしています。

天安門事件が成功していれば、江沢民の登場も反日も無かったわけで、今よりも平和的な日中関係が存在したでしょう。

東条の場合も軍人として優秀だったとは思えず、石原莞爾などは完全に馬鹿ににしていましたし、結局日中戦争を泥沼化させただけでした。近衛文麿が中国からの撤兵を説くも彼は最後まで首を縦にふりませんでした。

2.26の帰趨が少しでも違っていたら、後の歴史も随分変わっていたかもしれません。

天安門事件や2.26事件のような純粋な内政の問題が、後の外交を左右する重大な契機になっていたのです。