板野潤治氏の『西郷隆盛と明治維新』という本を読んだところ、「安政の大獄」について興味深いことを書かれていたのでブログで取り上げたいと思います。

板野さんは「安政の大獄」についての「俗説」を次のようなものだと指摘しています。

「有力諸藩の藩士たちが京都の朝廷に、大老井伊直弼の日米修好通商条約の調印は、朝廷の許可なく鎖国の法を破ったものであると訴えたので、世界の大勢に通じ『開国』の必要を確信していた井伊が、これらの保守的な『攘夷論者』を一掃したのが『安政の大獄』である」

実は今まで私もこの「俗説」を信じていました。

では、真実の「安政の大獄」とは何だったのでしょうか。

板野さんによれば、譜代大名と有力諸藩による「権力闘争」だったというのです。

「彼らは1600年の関ヶ原の戦の前から徳川家康に仕えた三河武士の後継者であり、禄高は御三家、親藩、外様雄藩よりもはるかに低かったが、老中と若年寄という幕府権力の中枢を握っていた」と井伊直弼を代表とする譜代大名について書いています。

そして井伊直弼に対抗したのが薩摩などの有力諸藩で、彼らは一橋慶喜を将軍後継にしようとし、西郷隆盛もこの工作に関わっていました。

このように「安政の大獄」とは純粋に国内の権力闘争をめぐる問題だったのですが、結果的に「攘夷」か「開国」かの路線闘争に火をつけ、「攘夷」派を過激化させそれが井伊直弼の命を奪うとともに幕府を弱体化させることにつながったのです。

私は板野さんの解説を読んで、同じことは2.26事件についても言えるのではないかと思いました。

2.26事件は、陸軍の「皇道派」が天皇親政を目指してクーデターを起こして失敗した事件ですが、この事件で最も影響を受けたのが陸軍の「外交路線」でした。

陸軍の「皇道派」の主敵はソ連であり、「統制派」と呼ばれる人々の仮想敵は中国と考えていました。

言い換えれば、2.26事件以前の陸軍はソ連を主敵とするか中国を主敵とするか決まっていなかったのです。ところが2.26以後、ソ連を主敵とする皇道派が陸軍から追放され、この危ういバランスが崩されてしまったのです。

2.26事件の翌年に中国との戦争が始まったのは偶然ではありません。

「安政の大獄」と「2.26事件」、どちらも国内での権力を巡る争いでしたが、「結果的」に重大な外交路線を巡る戦いになってしまったのでした。