1929年から始まった世界大恐慌の後、日本は満州事変を起こし既存の秩序に挑戦する「不満足国家」の立場を表明します。当然「現状維持国家」を代表する米、英との摩擦が大きくなってきました。近衛が「英米本位の平和主義を拝す」に書いた世界が現実化してしまったのです。
このような時に近衛は運命に導かれるように日本の指導者となり、日本の未来を背負っていかなくてはならない立場となったのです。
結果は、はっきり言ってしまえば失敗でした。しかし、近衛個人に責任を押し付けることはかわいそうなぐらい大きな障害が存在していました。
一番の問題は、平和か戦争かという国家の重大問題が関わってくる時に、軍部に対して首相が指揮命令する権限の無い明治憲法の重大欠陥が存在していました。さらに日本がコントロールすることのできない問題が近衛が首相をやっている時に次から次へと起こってしまったのです。
第1次近衛内閣の時に、彼が望んでいない日中戦争が始まり、拡大します。日中戦争が始まった背景には、中国において蒋介石が誘拐されるという西安事件が関係してきます(この裏側にはコミンテルンの存在がありました)。この事件が起こるまでは蒋介石の優先順位は共産党を潰すことの方にあったのですが、この事件以来日本への挑発が一段と激しくなったのです。
第2次近衛内閣では、松岡洋右を使って三国同盟を結びますが、工藤美代子さんが『われ巣鴨に出頭せず』に書いているようにこの同盟は後にソビエトを加えユーラシア大陸をつなぐ同盟に発展する計画があったのです。
日、独、伊、ソの4カ国同盟ができたらどうなったでしょう。ジョージ・ケナンは『アメリカ外交50年』で、アメリカの本当の脅威はユーラシアを支配するパワーが出現する時と書いていますが、4カ国同盟ができたらそれに近い状態を作り上げることになったでしょう。そうなればアメリカとの交渉も日本にとって有利に運べたはずです。おまけに、4カ国同盟ができたらソビエトと日本で中国を挟み撃ちにできますので、日中戦争も解決できるという算段が近衛首相にはあったのです。
ところが、この地政学的に大変意味のあった4カ国同盟は、ヒトラーの独ソ戦で無残に崩壊してしまったのです。
そこで第3次近衛内閣では、三国同盟を推進していた松岡を放逐し、アメリカの駐日大使グルーと組んで日米の交渉に邁進したのです。近衛はある決心をして日米首脳会談を行うつもりでした。その決心とは、工藤美代子さんによれば「大統領との会談で先方から陸軍が反対している支那からの撤兵問題が出されたら、その場から天皇に電報で裁可を仰ぎ、決定調印するという非常手段をとる」ことだったのです。
ところが、ルーズベルト大統領がこの交渉に全く興味を示さず、近衛の勇気ある決断が発揮できる機会が無くなってしまったのです。
その結果、第3次近衛内閣は崩壊し、日米の戦争があるか無いかの問題からいつあるのかという問題に変わってしまいました。
このような時に近衛は運命に導かれるように日本の指導者となり、日本の未来を背負っていかなくてはならない立場となったのです。
結果は、はっきり言ってしまえば失敗でした。しかし、近衛個人に責任を押し付けることはかわいそうなぐらい大きな障害が存在していました。
一番の問題は、平和か戦争かという国家の重大問題が関わってくる時に、軍部に対して首相が指揮命令する権限の無い明治憲法の重大欠陥が存在していました。さらに日本がコントロールすることのできない問題が近衛が首相をやっている時に次から次へと起こってしまったのです。
第1次近衛内閣の時に、彼が望んでいない日中戦争が始まり、拡大します。日中戦争が始まった背景には、中国において蒋介石が誘拐されるという西安事件が関係してきます(この裏側にはコミンテルンの存在がありました)。この事件が起こるまでは蒋介石の優先順位は共産党を潰すことの方にあったのですが、この事件以来日本への挑発が一段と激しくなったのです。
第2次近衛内閣では、松岡洋右を使って三国同盟を結びますが、工藤美代子さんが『われ巣鴨に出頭せず』に書いているようにこの同盟は後にソビエトを加えユーラシア大陸をつなぐ同盟に発展する計画があったのです。
日、独、伊、ソの4カ国同盟ができたらどうなったでしょう。ジョージ・ケナンは『アメリカ外交50年』で、アメリカの本当の脅威はユーラシアを支配するパワーが出現する時と書いていますが、4カ国同盟ができたらそれに近い状態を作り上げることになったでしょう。そうなればアメリカとの交渉も日本にとって有利に運べたはずです。おまけに、4カ国同盟ができたらソビエトと日本で中国を挟み撃ちにできますので、日中戦争も解決できるという算段が近衛首相にはあったのです。
ところが、この地政学的に大変意味のあった4カ国同盟は、ヒトラーの独ソ戦で無残に崩壊してしまったのです。
そこで第3次近衛内閣では、三国同盟を推進していた松岡を放逐し、アメリカの駐日大使グルーと組んで日米の交渉に邁進したのです。近衛はある決心をして日米首脳会談を行うつもりでした。その決心とは、工藤美代子さんによれば「大統領との会談で先方から陸軍が反対している支那からの撤兵問題が出されたら、その場から天皇に電報で裁可を仰ぎ、決定調印するという非常手段をとる」ことだったのです。
ところが、ルーズベルト大統領がこの交渉に全く興味を示さず、近衛の勇気ある決断が発揮できる機会が無くなってしまったのです。
その結果、第3次近衛内閣は崩壊し、日米の戦争があるか無いかの問題からいつあるのかという問題に変わってしまいました。
