これまで、イランと「日章丸事件」について触れてきましたが、今回はオスマントルコ帝国との間で起こった「エルトゥールル号事件」と比較して考察してみたいと思います。

エルトゥールル号事件とは1890年9月16日にオスマントルコ帝国のエルトゥールル号が和歌山県沖で遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件です。それでも現地の大島村の村民たちの献身で69名の命が助かり、またこのニュースを知った日本国民から多額の弔慰金が寄せられ、当時のトルコ政府から大変感謝されたのでした。

この話は「日章丸事件」よりも広範に日本国民に知れ渡っています。私も以前から知っていましたし、つい最近でも『週刊新潮』の藤原正彦氏のコラムでも取り上げられていました。

湾岸戦争でイラン側がイラクの戦闘機の情報について流してくれたのは、「日章丸事件」のおかげであると私は推測しましたが、この「エルトゥールル号事件」も湾岸戦争で威力を発揮します。

湾岸戦争の最中、イラクがイラン上空を無差別攻撃宣言したためにイランの在留邦人が危機的状況におちいります。そんな時に日本の野村大使がトルコのビルレル大使に日本の窮状を訴えると、トルコ大使は「わかりました。直ちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もがエルトゥールル号事件を知っています」と答えられ救援機の手配をしてくれたのでした。

その結果、215名の日本人はトルコ経由で祖国に帰ってこれたのです。

ここで疑問が浮かんできます。なぜ「エルトゥールル号事件」は割と良く知られているのに対して「日章丸事件」はそんなに知られていなかったのでしょうか。

1番大きな理由は、トルコがNATOに加盟する一応西側の国に対して、イランはホメイニ革命以来、西側と敵対する国になったことでしょう。トルコとの友好の証は意味があってもイランとの友好の証は迷惑だったのです。

2番目の理由は、「エルトゥールル号事件」が主に人道上の問題だったことに対して「日章丸事件」は英米の支配する石油市場への挑戦だったという側面があります。

戦後の日本で、そのような危険な側面のある「日章丸事件」を宣伝するわけにはいかなかったことが容易に想像できます。

ただ作家の百田尚樹さんが『海賊と呼ばれた男』を書かれて、この話が有名になることで少し潮目の流れが変わってきたじゃないかと推測できます。