前回の続きです。

日本を占領したマッカーサー将軍が戦後の平和憲法の基礎を作りました。当然、マッカーサーは日本がこの憲法を永遠に守って行くことを期待しました。

ジョセフ・ナイとは他の考え方は全く違いますが、憲法問題では全く同じなのです。

一方、アイゼンハワー大統領の国務長官を務めたジョン・フォスター・ダレスは、日米の同盟が対等なものになるように努力します。片岡鉄哉先生は「彼ほど日本に対等で平等の地位を与えようと努力したアメリカ人は他にいない」とまで書かれています。

つまり、日本の保守派の主張するストロング・ジャパン派とウィーク・ジャパン派の対立の始まりは、マッカーサーとダレスのものだったのです。

当時、最大の問題は日本の「再軍備」をめぐるものでした。

マッカーサーや吉田茂は急激な再軍備を日本が行うことに否定的でしたが、そのような態度にダレスは不満でした。彼にとって軍備のない独立国など考えることができなかったからです。

ダレスの考えは「文化的な日英同盟の再現であった。ただし軍事的に日英同盟を再現するのは、しょせん無理であった。これが彼のジレンマだった。だからダレスの唱える平等、自主性は外交上の平等、自主性であった。」と片岡先生は書かれています。

吉田首相と考え方の違うダレスは、自分のパートナーに考え方が同じの鳩山一郎(由紀夫の祖父)を選んだのです。

そして、いよいよ鳩山一郎は首相になります。ダレスもアイゼンハワー大統領から国務長官に選ばれます。おそらく日本の保守派は、新しい時代を期待したに違いありませんが、現実は悲惨でした。

鳩山一郎が首相になって、ダレスのいう「外交の自主性」を発揮しようと取り組んだのがソビエトとの国交回復でした。ところが、これを見たダレスに猛烈な不信感が起こってくるのでした。

その結果、パートナーに選んだはずの鳩山一郎政権をダレス国務長官は崩壊させる側に回ったのです。アーミテージが孫の由紀夫政権を潰すのに努力したように。

本来、平等な日米同盟と独立した日本の外交は両立可能なはずですが、結局ダレスは独立した日本の外交を認めることができなかったのです。

日本が憲法を改正することは、日本の独立を可能にすることです。そのようなものをダレスの末裔であるアーミテージは本当に認めるのでしょうか。