フジサンケイグループ会議二代目議長 鹿内春雄 | 墓守たちが夢のあと

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 日本最大級のメディア・コングロマリット(マスメディアを傘下に収める巨大な複合企業)であるフジサンケイグループの2代目議長を務めた鹿内春雄は、初代議長・鹿内信隆の長男として、昭和20年(1945)に北海道で生まれる。
 ボストン大学経営学部を中退し、帰国後の昭和45年(1970)に父が社長を務めるニッポン放送に入社。現場経験を積むため職場を頻繁に異動し、子会社のポニー(ポニーキャニオン)にも出向。信隆の後継者としての人脈づくりのため経団連会長の秘書も務めている。
 昭和52年(1977)にはニッポン放送副社長および産経新聞社取締役に就任し、昭和55年(1980)にフジテレビ代表取締役副社長となった春雄は、当時視聴率が低迷していたフジテレビの立て直しのため大胆な機構改革に着手する。
 当時、外部委託扱いであった制作部門は、もともとフジテレビ内にあったが、部内に労働組合関係者が多く、組合を嫌う鹿内信隆は丸ごと関連会社に移管して組合員は地方へ左遷。そのため現場は活気が無くなり視聴率低下を招く一因となっていた。
 春雄は父が左遷した社員を復帰させ、組合員であっても実力があれば重用している。のちにフジサンケイグループのトップに立つ日枝久氏も組合を結成した一人であったが、42歳で編成局長に抜擢されている。
 その制作部門をフジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」で視聴率を意識した番組制作がスピーディーに行える体制を構築。斬新な機構改革は後に他局でも取り入れられていく。
 春雄がフジテレビ副社長・会長時代に放送が開始された番組は、「オレたちひょうきん族」「なるほど!ザ・ワールド」「笑っていいとも!」などがあり、フジテレビはこの時期「年間視聴率3冠王」(ゴールデン・プライム・全日でトップ)を獲得するなど全盛期を迎えている。
 昭和60年(1985)に、フジテレビ、産経新聞社、ニッポン放送の会長に就任し、フジサンケイグループ議長へ就任した春雄は、フジサンケイグループの統一シンボルとして現在も使われている『目玉マーク』を制定。テレビ放送のハイビジョン化や、産経新聞の紙面カラー化とタイトル刷新などに取り組んでいる。
 こうした改革はグループ内で強力に支持されるが、そうした中、昭和63年(1988)に春雄はゴルフのプレイ中に急に体調を崩し、自宅静養の後、周囲の勧めで入院している。
 入院後も病床で業務報告を受けるなど元気そうであったが、間もなく容態が急変し、体調不良からわずか1週間後に42歳の若さで急死する。死因はB型肝炎による急性肝障害と言われている。
 トップの突然の死でグループ内に激震が走り、これを静めるために信隆が議長に復帰しているが、信隆は銀行員であった娘婿(春雄の妹の夫)の宏明と養子縁組して議長代行に据えている。
 あくまで鹿内家によるグループ支配にこだわった信隆が平成2年(1990)に亡くなり、宏明が第3代議長に就任するが、グループ内で何の実績もない宏明への反発は大きく、平成4年(1992)産経新聞社取締役会において突然会長職を解任され、他の役職も自ら辞任するというクーデターが起き、三代にわたる鹿内家によるグループ支配は終焉を迎えている。


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