中央公論社社長 嶋中雄作 | 墓守たちが夢のあと

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 日本の代表的な総合雑誌「中央公論」で知られる中央公論社の社長で、「婦人公論」の創刊も手掛けた嶋中雄作は奈良県出身で、早稲田大学文学部哲学科を卒業後、大正元年(1912)に中央公論社へ入社。
 翌年手掛けた『中央公論』の婦人問題特集号の成功により、大正5年(1916)に『婦人公論』が創刊されると、その編集長に就任しています。
 大正14年(1925)『中央公論』の編集長を務めていた滝田樗陰が亡くなり、その後任となった嶋中は、昭和3年(1928)に社長の麻田駒之助から同社を譲り受け、社長に就任しています。
 なお、『中央公論』は元々西本願寺系の普通教校(現在の龍谷大学)の機関誌『反省会雑誌』がルーツで、明治32年(1899)に学校から独立し『中央公論』と改題。滝田の手腕により夏目漱石、森鷗外や、新進気鋭の芥川龍之介を執筆陣に引き入れ発行部数を伸ばしますが、滝田が亡くなったことで部数が低迷し、嶋中が経営権を買い取ったそうです。
 社長となった嶋中は出版部を新設し、世界的ベストセラー『西部戦線異状なし』を日本語に訳し刊行して成功を治めます。
 さらに坪内逍遥訳による『新修シェークスピヤ全集』や、谷崎潤一郎による『源氏物語』現代語訳を出版し、中央公論は戦前日本の文壇、論壇の中心的存在として、ゆるぎない地位を確立していきます。
 しかし、太平洋戦争における戦時体制下でも反軍国主義、自由主義の姿勢を貫いていた中央公論は、厳しい言論弾圧を受けていくことになります。
 谷崎潤一郎の代表作『細雪』も、昭和18年(1943)に中央公論で連載が開始されますが、軍部は「内容が戦時にそぐわない」として掲載の中止を命令。戦後改めて刊行されています。
 結局、中央公論は昭和19年(1944)に解散命令を受けて廃刊となりますが、戦後の昭和21年(1946)に復刊を果たしています。
 ところが、嶋中雄作は中央公論が復刊して間もなく病に倒れてしまいます。そして雄作の後継者として中央公論社に入社した長男の晨也が昭和22年(1947)に28歳の若さでで死去したため、次男の鵬二が会社を引き継いでいます。
 多くの作家を支援し、中央公論社を発展に導いた嶋中雄作は、昭和24年(1949)に61歳の生涯を閉じています。


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