出石藩第3代藩主 仙石政辰 | 墓守たちが夢のあと

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仙石家の墓所

 

出石藩第3代藩主 仙石政辰の墓

 

 但馬国の出石藩を立藩した小出氏は、元禄9年(1696)に第9代藩主・小出英及が、わずか1歳で夭折し断絶。続いて武蔵国岩槻藩主であった松平忠周が新藩主となりますが、宝永3年(1706)に信濃上田藩への再転封となり、忠周と入れ替わる形で上田藩の仙石政明が転封。以降、出石藩は幕末まで仙石氏が治めることとなります。
 仙石氏はもともと美濃国の豪族で、中興の祖である仙石秀久は斎藤氏に仕えていましたが、斎藤氏が織田信長により滅ぼされると織田氏に仕え羽柴秀吉の配下となります。秀吉の家臣として頭角を現していった秀久は、天正13年(1585)同年に関白となる秀吉の四国征伐で軍功を上げて讃岐国高松10万石の大名にまで出世します。
 ところが、翌年の九州征伐の前哨戦である戸次川の戦いでの大敗に激怒した秀吉は秀久を改易。その後、小田原征伐での活躍で、ようやく信濃国小諸5万石の大名として復帰しています。
 関ケ原の戦いで東軍に与した秀久は、幕府の信頼も厚く、豊臣恩顧の外様でありながら譜代大名並みの待遇を受けていて、秀久の跡を継いだ仙石忠政は信濃上田藩主へと移封。その三代目である政明が出石藩主となったのです。
 ところで、出石と言えば「出石そば」が有名ですが、これは蕎麦好きだった政明が、出石への移封の際に信州そばの職人を連れてきたことに始まるとされています。
 沢庵宗彭ゆかりの宗鏡寺には、第3代藩主・仙石政辰と第5代藩主・仙石久道の墓があります。
 第3代・仙石政辰(まさとき)は、享保8年(1723)に分家の旗本・仙石政因の7男として生まれています。出石藩仙石氏二代目の仙石政房は、家老から初代政明の養子となり家督を継いでいますが、曾祖父の仙石久忠は、仙石秀久の長男でありながら失明のため廃嫡されていたため、本来なら嫡流の家柄でした。
 その政房に嫡男が生まれず、従弟にあたる政辰が享保17年(1732)に婿養子となり、享保20年(1735)に政房の死去により家督を継承します。
 政辰は尊王の志が厚く、日々紫宸殿の門前で拝み、賀茂神社に詣でて中宮の皇子誕生を祈っていたそうです。四十数年間藩政を執りますが、財政難のため宝暦2年(1752)には上米を行なうなど財政再建に腐心。
 一方で学問の振興に尽力し藩校を創設。陶磁器製造を保護するなど産業の振興にも力を入れ、安永8年(1779)に出石で亡くなっています。戒名「実相院殿諦巌了真大居士」


宗鏡寺:兵庫県豊岡市出石町東條33