村岡山名氏五代目・山名豊就 | 墓守たちが夢のあと

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山名豊就の墓

 

側面

 

 室町幕府の有力守護大名で、江戸時代には大名格の交代寄合旗本であった村岡山名氏の五代目・山名豊就(とよなり)は、貞享3年(1686)に分家の山名義豊(初代豊国の孫)の三男として生まれます。
 山名家は、四代目として福島正則の曾孫にあたる山名隆豊を養子に迎えましたが、隆豊は子宝に恵まれず、元禄14年(1701)に豊就が養子となります。
 宝永元年(1704)養父の隠居にともない家督を相続した豊就は、8代将軍徳川吉宗に重用され、大番頭を経て、元文4年(1739)に寺社奉行に就任し、亡くなるまでその任にあたります。
 寺社奉行は本来、一万石以上の譜代大名が任命される役職であり、豊就の抜擢は名門とはいえ異例のことでした。しかし同時期に名町奉行として知られた大岡忠相も旗本でありながら寺社奉行へ転身していることから有能な人材を積極的に登用した吉宗の意向だったのかもしれません。
 豊就は、領内で一揆が起こった際、百姓の要求を多く聞き入れ解決するなど手腕を発揮し、延享4年(1747)に62歳で亡くなっています。法名「大圓院殿暁山道清大居士」


壺渓御廟:兵庫県美方郡香美町村岡区村岡