後藤猛太郎 | 墓守たちが夢のあと

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後藤猛太郎の墓

 

後藤猛太郎の墓(裏側)

 

 明治の元勲、後藤象二郎の嫡男(二男で兄は夭折)後藤猛太郎(たけたろう)は、文久3年(1863)高知城下で生まれています。
 幼い頃から外国語を学びオランダへ留学していた猛太郎は、放蕩生活で多額の借金を負ったことから、明治21年(1888)に父に勘当され分籍処分を受けています。
 象二郎の怒りは相当なものだったようで、勘当が解かれたのは明治29年(1896)、息子の保弥太が生まれたのがきっかけですが、象二郎は翌年に亡くなっています。
 外務省御用掛で通訳を務めていた猛太郎は、明治17年(1884)に日本政府へイギリス捕鯨船から、ミクロネシアのマーシャル諸島ラエ島で日本人の漂流者が殺害されたという情報がもたらされたため現地調査を命じられます。これが日本人初の南洋群島の探検だそうです。
 猛太郎は現地の大酋長に謁見した後、調査を行い殺害犯として2名を逮捕。また独断でマーシャル諸島の日本領有を宣言し、現地に日章旗を建てた後、犯人を連行し帰国します。驚いたのは日本政府で、国際問題となることを恐れ、マーシャル諸島の領有を却下。連行された犯人は日本の気候が合わなかったのか間もなく亡くなり事件はうやむやとなります。
 この騒動で外務省を退職した猛太郎は、新潟の銅山の経営を始め財を成しますが、これも豪遊生活により経営破綻。多額の借金を抱え親友の実業家・杉山茂丸邸に居候します。
 父象二郎が亡くなり、伯爵を襲爵した猛太郎は、品川馬車鉄道会社の社長などを歴任し、明治45年(1912)には映画会社「日本活動フィルム株式会社」の初代社長に就任。「日本活動フィルム株式会社」は略して「活フイ」と呼ばれていたため「会社が“フイ”になってはだめだ」と縁起を担いで「日本活動冩眞株式會社」へ社名変更されますが、それが現在の「日活株式会社」です。
 「天下のならず者」と自称するほど波乱に富んだ生涯を送った後藤猛太郎は、大正2年(1913)に享年51歳で亡くなっています。


青山霊園1種イ13-24