浪花節中興の祖 桃中軒雲右衛門 | 墓守たちが夢のあと

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天妙国寺の山門

 

桃中軒雲右衛門の墓(右)と妻お浜の墓(左)

 

刻まれた戒名

 

かつての銅像の台座に乗った慰霊碑

 

桃中軒雲右衛門

 

 南品川の天妙国寺には多くの浪曲関係者が葬られていて、「浪曲の聖地」と呼ばれています。
 明治から大正時代にかけて一世を風靡し「浪聖」と謳われた浪曲師・桃中軒雲右衛門は、旅回りの祭文語り・吉川繁吉の次男として明治6年(1873)に生まれます。
 9歳頃から父親のもとで修業し、12歳で一座の看板主として二代目吉川繁吉を名乗り活躍。寄席への進出も果たしますが、その後、浪曲師に転向し、中京節の三河家梅車の門人になっています。
 しかし、明治35年(1902)に師匠の妻で三味線の名手であったお浜と駆け落ちし、名古屋・京都・大阪へと下っていきます。
 この頃に「桃中軒雲右衛門」と改名していますが、その由来は沼津駅の駅弁屋「桃中軒」と修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」から来ていると言われています。
 活躍の場を関西へ移した雲右衛門は、従来の関東節に加えて、関西節や、九州で流行っていた三味線を伴奏に入れた軍談を融合させ、独特の雲右衛門節を創始。雲右衛門独特の重厚なフシ調は「雲調」や「雲節」と呼ばれ人気を博していきます。
 明治36年(1903)には、弟子で革命家の宮崎滔天や玄洋社・頭山満の後援で、忠臣蔵を題材にした「義士伝」を完成。武士道鼓吹を旗印に九州全域で興行を行い人気を博します。
 明治40年(1907)、34歳の時には大阪中座や東京本郷座に進出。雲右衛門は、舞台を美しい屏風で飾り、テーブル掛けも豪華、三味線は衝立の陰に隠し、衣裳は紋付袴と、現在の浪曲のスタイルを完成させ舞台は大入り。
 寄席芸にすぎなかった浪曲は、劇場への進出が可能となり、一般大衆へと浸透していくことになります。
 絶大な人気を誇った雲右衛門は、当時普及し始めたレコードも製作し大ヒットしたそうですが、余りの人気のため海賊版が出回りはじめ、版権を持つ発売元が裁判を起こしています。
 これが日本初の著作権訴訟だと言われていますが、その判決で被告は無罪となっています。当時の法律で音楽は「美術の著作物」として認められていたものの、楽譜などが無い雲右衛門の浪曲は、新旋律を誰がいつ考えたか証明することが出来ないというのが理由でした。
 ただ、判決を下した大審院も含め、この結論に違和感を持つ人々も多く、事件をきっかけに大正9年(1920)に著作権法が改正され「演奏歌唱」を著作物として例示。その録音を勝手にコピーして販売することも犯罪とみなされるようになったそうです。
 浪花節中興の祖と呼ばれた雲右衛門ですが、大正2年(1913)頃からは、肺結核を患い入退院を繰り返しながら巡業に出るようになります。発熱があっても「頼まれた以上は」と出演を続けたそうで、最後は実子の西岡稲太郎が自宅に引き取り大正5年(1916)に43歳の生涯を閉じています。
 天妙国寺にある雲右衛門の墓は、自身が生前に建立したもので品川区の史跡に指定されています。また、戦前には墓所に風右衛門の銅像が建立されていたそうで、現在はその台座に慰霊碑が乗っています。


天妙国寺:東京都品川区南品川2-8-23