岩瀬忠正、岩瀬氏代々の墓
日米修好通商条約を締結し日本を開国へ導いた岩瀬忠震が、婿養子となり家督を相続した岩瀬家は、藤原南家の流れを汲む、鎌倉幕府の官僚として活躍した二階堂氏の支族で、奥州岩瀬郡を拠点としていました。
15世紀頃に三河国に移り、今川氏に仕えた岩瀬氏は、宝飯郡内(豊川市)を所領。そして東三河の土豪であった牧野氏、真木氏、野瀬氏などと結び、今川勢として西三河の松平氏と対峙していきます。なお、岩瀬氏の惣領家は、江戸時代も宝飯郡に留まり郷士として明治を迎えています。
一族の一人で大塚城主・岩瀬氏俊の弟・和泉守入道善性が牛久保城主・牧野氏に付属したのが、後に幕臣となる岩瀬氏(岩瀬吉左衛門家)の始まりで、桶狭間の戦い以降、弱体化する今川氏に見切りをつけて家康に仕えています。
岩瀬忠震が家督を継いだのは、岩瀬吉左衛門家の分家の一つで、養父の岩瀬忠正は家禄800石の旗本でした。
雑司ヶ谷霊園の岩瀬氏の墓所には、岩瀬忠震の他、岩瀬忠正、岩瀬氏代々の墓が建立されています。
雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区南池袋) 1種1号8側6番