「正二位勲一等伯爵大木喬任之墓」、右側は喬任夫人朋子の墓。
墓石に刻まれた碑文は、副島種臣撰、金井之恭の書によるもの。
大木喬任
明治時代の政治家、大木喬任(おおき たかとう)は、もと肥前佐賀藩士で、藩校弘道館に学び勤王派として活躍します。
維新後は新政府に出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務め、東京奠都の建白書を提出するなど、その実現に尽力しています。
その後、民部卿、文部卿、教部卿、司法卿などの要職を歴任し、特に文部卿時代には日本初の近代的学校制度を定める法令「学制」を制定。法典編纂の確立にも尽力し「明治の六大教育家」の1人に数えられています。
また司法卿時代にも萩の乱、神風連の乱で現地に出向き、暴徒の処罰などの事後処理にあたり、これらの功により明治17年(1884)華族令施行によって伯爵に叙せられます。
明治21年(1888)に枢密顧問官となった大木は、翌年に枢密院議長へ就任。明治24年(1891)には第1次松方内閣において文部大臣に就任するなど政権中枢で活躍し、明治32年(1899)に亡くなっています。享年67歳。
青山霊園 1種イ5号 8~10側