谷中霊園の徳川慶喜の墓所の近くに四男の徳川厚の墓があります。母は側室の中根幸。兄の夭折により実質的に長男として育った厚は、明治15年(1882)9歳の時に徳川宗家から分家し華族に列します。後に侯爵として「徳川慶喜家」を興す慶喜も当時は宗家に属していたためです。
墓誌。二つあるうちの一つに厚の名が刻まれている。
明治17年(1884)華族令により男爵に叙せられた厚は、明治28年(1895)に越前福井藩主松平春嶽の六女里子と結婚。
その後、明治37年(1904)から貴族院議員として活躍する一方、東明火災保険(後に東京海上火災に合併)の取締役も務め、昭和2年(1927)に長男喜翰に家督を譲り昭和5年(1930)に亡くなっています。
墓誌
ところで、徳川厚は慶喜に似て趣味人で、乗馬・狩猟・ビリヤード・絵画などはプロ並みの腕前だったそうです。
自動車の免許を取得した厚は運転にも夢中になりますが、大酒飲みのため、度々、飲酒運転で車を溝に落とす事故を繰り返していたと言われます。
大正7年(1918)に厚は帝国ホテルで食事をした際、酒をかなり飲み酩酊状態で車を運転しひき逃げ事件を起こします。
目撃者の通報で捜査を開始した警察は、車の中で泥酔している厚を発見し取り押さえます。
被害者の男性は全治3週間の重傷でしたが、厚は「覚えていない、気づかなかった」の一点張りで、挙句の果てに「被害者には見舞金を払ったので喜んでいるはずだ。大した事件ではない。」と語ったものですから世間の反発を買います。
結果的に、免許は没収。罰金刑に処され、宮内省からも警告を受けることとなります。ただ、現在の基準からすると、ずいぶん甘い処分だと思いますが、時代ということでしょうか。
谷中霊園 徳川慶喜墓右側通路先右角