第12代、14代内閣総理大臣 西園寺公望 | 墓守たちが夢のあと

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西園寺公望の墓
 
西園寺公望

 

 内閣総理大臣を歴任した政治家・西園寺公望は嘉永2年(1849)に公家徳大寺公純の次男として生まれ、同族の西園寺師季の養子となります。
 王政復古で参与に就任すると、戊辰戦争では山陰道鎮撫総督,会津征討越後口総督府大参謀として従軍しています。
 明治以降、明治2年(1869)に私塾立命館を創立。(1年後に京都府庁の差留命令により閉鎖され、後に西園寺の秘書官、中川小十郎が再建しています。)
 フランス留学を経て、明治14年(1881)に参事院に入り、翌年、伊藤博文が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際には、随員に選ばれ、その縁で伊藤の腹心になります。
 明治18年(1885)にはオーストリア公使,次いでドイツ公使兼ベルギー公使を歴任した公望は、明治24年(1891)に帰国すると、賞勲局総裁,法典調査会副総裁,枢密顧問官,貴族院副議長を経て、日清戦争中の明治27年(1894)に、第2次伊藤博文内閣の文部大臣として初入閣。そして、翌年には病気の陸奥宗光に代わり外務大臣臨時代理を務め戦後外交にも当たりました。
 第3次伊藤内閣でも文相に就任した公望は、伊藤の立ち上げた政友会総裁に伊藤の跡を継いで就任。明治39年(1906)に第12代内閣総理に就任すると、日露戦争後の南満州からの撤兵問題、日露協約の締結に尽力します。一旦、首相を退きますが、明治44年に再び返り咲き、この時、明治天皇崩御により大正時代を迎える事となりました。首相辞職後の大正元年(1912)には元老に列し、松方正義の没(1924)後に、唯一の元老として後継首相の推薦や天皇の最高政治顧問を務め影響力を維持しますが、昭和15年(1940)に亡くなり多磨霊園に葬られました。
 
多磨霊園 8-1-1-16