名和長年の末裔 男爵・名和長恭 | 墓守たちが夢のあと

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男爵・名和長恭の墓

 
 建武の中興で、後醍醐天皇の忠臣として活躍した名和長年と長男の義高らの墓である「三人五輪」(鳥取県西伯郡大山町名和)の隣りに長年の末裔の墓があります。
 義高の死後、跡を継いだ甥の顕興は、義高が地頭職を務めた肥後国八代庄に下向し、肥後名和氏の祖となります。一説には肥後へ移った名和氏の一部が沖縄の佐敷に渡り、琉球最初の統一王朝をつくりあげた「第一尚氏」になったとも言われています。
 名和一族は九州地方で生き続け、幕末には柳川藩(福岡)の家臣であったと言われています。明治に入ると、後醍醐天皇を護った南朝の武将たちの功績が再評価され、明治19年(1886)に長年に正三位、昭和10年(1935)には従一位が追贈されます。
 それに伴い、明治17年(1884)には九州で生き残った長年の末裔・名和長恭には男爵の爵位が授けられています。
 
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名和神社
 
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社紋(名和氏の家紋)
 
 大山町名和には名和長年と、その一族を祀った「名和神社」があります。旧社格は別格官幣社、建武中興十五社の一社です。
 元は名和邸跡に小祠が建立されたのが始まりで、初代鳥取藩主・池田光仲が長年を崇敬していたことから、延宝5年(1677)に名和邸跡の東方の日吉坂の山王権現の社地に新たに社殿が造営されます。
 江戸時代は山王権現の末社「氏殿権現」と称されてきましたが、明治7年(1873)に県社に列し、「氏殿神社」と改称。関係者の働きかけにより明治11年(1878)に「名和神社」と改名し、別格官幣社に列せられました。
 その後、老朽化により社殿を国費により建替え、明治16年(1883)に遷座式が執り行われています。なお、名和家当主の名和長恭男爵は名和神社の宮司を勤めていたそうです。
 名和神社の社紋は、「帆懸船」ですが、これは名和氏の家紋で、海運業により発展した名和氏にちなみ後醍醐天皇から賜ったものだと伝えられています。
 
三人五輪:鳥取県西伯郡大山町名和
名和神社:鳥取県西伯郡大山町名和556