「豊臣秀頼は生きていた」 日出藩木下家の墓  | 墓守たちが夢のあと

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木下家の墓

 
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木下家墓誌
 
 青山霊園の豊後日出藩第16代(最後)の藩主・木下俊愿の墓の隣りに、俊愿以降の木下家の墓があります。墓石には「豊臣子爵木下家之墓」と刻まれています。日出藩の初代・木下延俊は豊臣秀吉の正室・高台院の兄・木下家定(備中足守藩初代)の三男で、家定は元々、豊臣姓を名乗っていました。
 木下俊愿は明治以降、政府に豊国神社の造営を働きかけています。木下家の墓誌には俊愿は「豊臣俊愿」と刻まれてています。
 また、俊愿の息子・木下俊哲は子爵であった事が分かります。華族会館分館主事をつとめていたそうです。
 豊臣家18世の木下俊煕氏は「秀頼は薩摩で生きていた」という著書を書いています。大阪が落城した際に豊臣秀頼は、息子の国松と共に九州に逃れて木下延俊の庇護を受けて、宗連と名乗り45歳まで生きたという伝説があり、秀頼の子・国松は延俊の次男として「木下延由」と名乗ったそうです。
 真偽のほどは分かりませんが、延俊は遺言により延由に日出藩3万石のうち、5千石を与え立石領初代領主としています。
 木下俊煕氏は昭和61年に亡くなり木下家の墓で眠っています。
 
青山霊園 1種イ2号25側