国際連盟脱退 松岡洋右 | 墓守たちが夢のあと

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案内の碑

 
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松岡家の墓
 

松岡洋右

 
 青山霊園内を歩いていると「松岡洋右先生の墓」という案内の碑があり、お参りしてきました。松岡洋右(ようすけ)は外交官として活躍し、外務大臣などを歴任した政治家です。
 明治13年(1880)に現在の山口県光市で生まれた松岡は、アメリカに移住していた親戚を頼り明治26年(1893)に渡米し留学します。
 この頃の体験により松岡はアメリカ人に対する場合、「例え脅されても、自分が正しい場合は道を譲ってはいけない。対等の立場となるためには、力には力で対抗する。そうして初めて真の親友となれる。」と考えるようになります。
 松岡はオレゴン大学法学部を卒業後、さらに進学を目指していましたが、母親の病のために帰国。外務省に入省します。
 上海など中華民国勤務を長く務める一方、大正8年(1919)に開かれた「パリ講和会議」では、日本政府のスポークスマンとして得意の英語での弁舌に力を発揮しています。
 大正10年(1921)に外務省を退官すると、上海時代に知り合った三井物産の山本条太郎の引き抜きにより南満州鉄道へ入り理事や副総裁を歴任します。
 昭和5年(1930)に会社を退職し、衆議院議員総選挙に立候補した松岡は、見事に当選し国会議員となります。議会では対米英協調・対中内政不干渉を方針とする幣原内閣を厳しく批判し国民の支持を得ていきます。
 昭和6年(1931)に勃発した「満州事変」をうけて、翌年、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)の採択が、ジュネーブ特別総会で行われる事となります。報告書では日本の満州における特殊権益の存在を認めるものの、満州を国際管理下に置き、「満州国」を認めない内容だったため、日本政府は反発していました。
 このような状況で、松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣されます。日本が不利な状況で開かれた連盟総会で松岡は、1時間20分にわたり原稿なしの大演説を行ない各国代表の絶賛を受けます。優れた英語力と弁舌の能力を評価されたものですが、それでも日本不利の状況を覆らせることはできず、総会では「リットン報告書」が圧倒的多数で採択されます。松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して総会から退場。後日、日本政府は国際連盟脱退を正式に発表しました。
 帰国後、英雄視された松岡は、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職、ファシズム的な論調を展開し全国遊説を行っています。その後、再び満鉄に入り総裁を務めていましたが、昭和15年(1940)に、近衛文麿が首相となると、松岡を外務大臣として指名します。軍部に人気がある一方、軍部を抑えることを期待しての起用でした。
 外務大臣となった松岡は官僚主導の外交を嫌い、主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命しています。また、一部の外交官には辞職を迫っています。後に外務大臣となる東郷茂徳も駐ソ連大使を更迭され辞職を迫られていますが拒否しています。
 松岡は世界を、アメリカ、ロシア、西欧、東亜の4つのブロックに分け、それぞれ「指導国家」が指導する構想を持っていました。この東亜ブロックこそ、第二次世界大戦で日本が構想した「大東亜共栄圏」の事です。
 松岡は各ブロックが協調することで世界が一つにまとまると考えていたと言われ、ヨーロッパを席巻しているドイツ、及びイタリアとの三国同盟に傾倒していく一方、ロシアブロックのソ連との友好関係構築を模索。そこで三国同盟締結後、ドイツに日ソの仲介を依頼する事を考えます。
 極秘裏に交渉が進められた「日独伊三国軍事同盟」は昭和15年(1940)に成立。続いて同盟にソ連が加わる四国同盟が検討されていましたが、ドイツとソ連の関係が急速に悪化してしまいます。
 この事態に対応するために松岡は各国を歴訪。ヒトラーとムッソリーニの両首脳と首脳会談を行い大歓迎を受けます。四国同盟構想は崩壊しますが、モスクワに立ち寄った松岡は、日ソ中立条約調印に成功しています。シベリア鉄道で帰国する際にスターリン自らが駅まで見送りに来るという異例の対応でした。
 しかし、日米の交渉は難航し、さらにドイツとソ連がついに戦争を開始してしまいます。松岡はドイツと協力しソ連を挟み撃ちとする北進論を主張しますが、政府首脳内ではソ連との中立条約を堅持し南方へ進出する南進論が優勢であり、独断専行が多かった松岡は次第に孤立し失脚してしまいます。その後、日米は開戦しますが、アメリカ通の自分の考えが政府内で理解されなかった事への無念さを周囲に訴えていたと言われます。
 戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されますが、結核を患っていた松岡は昭和21年(1946)に病死しています。享年66歳でした。
 
青山霊園 1種イ3号5側