幕末期の幕臣 大鳥圭介 | 墓守たちが夢のあと

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大島家の墓所

 
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男爵大鳥圭介以降累代の墓
 
大鳥圭介
 
 青山霊園に幕末期の幕臣・大鳥圭介の墓があります。
 播磨赤穂郡赤松村の医師、小林直輔の子として天保4年に生まれた大鳥圭介は、岡山藩の関谷学校で漢学を学んだ後、大阪の緒方洪庵の適塾では蘭学を学んでいます。やがて、江戸へ出た大鳥は坪井忠益の塾に入る一方、江川太郎左衛門から兵学を、中浜万次郎からは英語と、一流の人々から様々な学問を習得していきます。
 安政5年に幕府開成所の教授に就任した大鳥は、その後、陸軍に入り歩兵指図役頭取、歩兵奉行と昇進していきます。更に、豊富な西洋の知識を活かして二院制議会の採用を上申するなど幕臣としても活躍していきます。
 戊辰戦争が勃発すると小栗上野介らと共に徹底抗戦を主張した大島は、各地を転戦し、旧幕府軍が函館の五稜郭にて「蝦夷共和国」建国を宣言すると、選挙により陸軍奉行に就任します。しかし、明治2年に「蝦夷共和国」は新政府軍の総攻撃で敗北し、大鳥は投獄されます。明治5年に出獄するとし、大鳥はすぐに新政府に出仕し、開拓使御用掛を初めに学習院院長等を歴任しました。
 外交官に転じた大島は、明治22年(1889)には駐清国特命全権公使、および朝鮮公使を兼任。日清戦争開戦直前の困難な時期に外交交渉に当たっています。明治27年(1894)に帰国すると枢密顧問官に転じ、明治33年(1900)に男爵を授けられ、明治44年(1911)に神奈川県足柄下郡国府津町の別荘において食道癌のため死去。享年78歳でした。
 
東京都港区 青山霊園 1種イ1号2側2番